アライって言葉がなくなるのが最終目標だよねって話
アライ(ally:協力者)というのは、性的マイノリティーに対して理解、共存したいですっていう意思表示をしてくださっている方々。ありがたい。
けど、ふと思うんです。「アライって言葉があるうちは、本当の意味で理解が進んだ訳ではないんじゃないかなあ」と。もちろん、70年以上前、性的マイノリティーが処刑までされていたような時代より、アライっていう言葉がある今の方がよっぽど良いです。でも、これから先、本当に私たちみたいなのと社会のみなさんとで協力、共存していくとしたら、この「アライ」っていう言葉自体が壁になるんじゃないかと思っています。
アライという言葉の意味はさっき書いた通りです。でもこれ、「理解を示す」方々への言葉で、ということは、私たちみたいな者へはまだ「理解が必要」なんですよね。これがいつまでたっても「理解が必要」のままだと、世の中に馴染める時は来ないんじゃないか、と思ってしまうんです。性格悪いかなあ。
もちろん今はまだ「理解が必要」だと思います。私が言ってるのは、もっともっと先の話です。ただ、私としては、最終的に「なんか特別理解・勉強が必要」なものじゃ無くなって欲しいんです。LGBTっていうのが。
結局「LGBTなる架空の存在」なんてなくて、個々の生き方、価値観がそれぞれにあって、その傾向の一つにLGBTっていうのがある、と。それだけのことなんですが、今、なんとなく「架空のLGBTなる存在」の像が出来上がりつつあって、それに対して「配慮が必要なめんどくさい存在」という印象がくっつき始めている、と感じます。だからこそ、反対の意味である「アライ」という言葉もあるんじゃないかな。つまり、そういう「めんどくさい奴ら」というイメージさえなくなれば、特別「アライ」を名乗る必要もなくなるんじゃないかな、と思うんです。
それに「理解が必要」って別に人付き合いするなら特別なことじゃないと思いますし。人付き合いする上で相手のことを理解しようとすることって、当たり前のことだと思います。それがなんだか「特別な」理解が必要、みたいに言われていくと、どんどん私たちは「腫れ物」になっていってしまう。そういう懸念があります。そうなってしまうと、触れること、話題にすることが憚られて、理解も共存もできない未来が来てしまう。私はそれが一番怖いです。
「LGBTなる特別な配慮が必要なめんどくさい架空の存在」のイメージが崩れて、どんどん色々な方との交流が進んで、結果、特別「自分はアライです」とかって名乗らなくなる。そういう状態が私にとっては理想の最終的な未来の姿です。
(本記事の画像は、notesユーザーのrio_akiyamaさんからお借りした、2018年のパレード写真です。)
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