-信頼する、ということ-
何年か前に、古い友人から、このようなことを言われた。
「トーマスくん(?)は、人を信じてる、と思う」
そう言われたとき、そんなことないけどな、とか思った。
そこには、その言葉には、少し皮肉も混じっているように聞こえたから。
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でも、よくよく考えてみると、わたしは、多分、人並みの平均より、信頼している人もいるし、信頼してくれている人もいるかもしれない。
そこで、人を信頼する、ということについて、深掘りしてみたので、記事にしてみることにした。
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まず、人を信頼する、とは、どういうことか。
例えば、人を信じる、というと、疑うことすらない、というか、疑う気持ちを、信じる気持ちで上塗りする、みたいなイメージがある。
でも、それはちょっと違うと思う。
わたしの思うイメージは、こうだ。
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わたしの信頼の理想を考えてみた。
まずは、信じる気持ちは、六割くらいがベスト。
そして、一割から二割の、疑う気持ち。
あと、二割から三割の、信じることも疑うこともないフラットな気持ち。
この辺りがベストコンディションではないか、と。
八割とか九割とか、そこまで信じていると、それは信頼というより、盲信に近い。
あっさり騙されるし、危険が一杯である。
また、八割から九割も信じてしまうと、ちょっとしたことで、すぐに、あ"ー、裏切られたー、みたいな話になる。
始めから、六割くらいの信じる気持ちなら、ちょっとした嘘も、まぁ、仕方ないよね、とはぐらかすことができる。
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お互いの信頼関係、という意味でも、ちょっとした嘘を許してもらえる、というのは、これはこれで、なかなか味わい深い信頼関係となる。
また、疑っている気持ちが一割から二割くらいあると、それなりに相手に誠実であろうとする。
不誠実なことをすると、手の平を返されてしまうかもしれない、という不安な気持ちがあると、それはそれで、また、味わい深い信頼を生むことがある。
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というわけで、今回の記事は、よりよい信頼関係を築いていくために必要な、人を信じる気持ちは、六割くらいがよさげでは、という話でした。
それでは、またご機嫌のよき夜に。
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<追記>
記事を読み返してみると、信じる気持ちは、もっと少なくてもいいのかも、ごく普通の付き合いでは、三割とか四割くらい信じていられたら、上々かもしれない、という気持ちも芽生えてきました。