神の知と人間の知 はじめに 目次
神の知と人間の知 谷口 茂
はじめに
本稿は、筆者がこれまでに学会等で発表した以下に掲げる論文に加筆し、本稿のテーマに則してまとめ、一つにしたものである。それぞれの発表論文と本稿の各章との関連を、先ず示しておく。
本稿、第1部 科学と神学の世界観・人間観―批判と問題提起―
第1章から第10章
「神学と哲学―現代から見たトマス神学における哲学の位置―」『南山神学・別冊』第10号(南山大学大学院神学研究室、1993年)87~115頁
「説明と了解―科学と神学―」『日本カトリック神学会誌』第24号(日本カトリック神学会、2013年)67~86頁
「人となられた神と神となろうとする人―神学と進化思想との対話―」『日本カトリック神学会誌』第14号(日本カトリック神学会、2003年)155~176頁
「神は妄想である、ただ救いはそこにある―神学の世界解釈―」日本カトリック神学会、2011年学術大会発表
「神の知は進化思想に溶解されるのか―トマス神学とデネットが再構築した進化思想―」『中部哲学会年報』第41号(中部哲学会、2009年)72~84頁
「科学思想と宗教思想の精神観―現代の科学思想における普遍精神への傾きと、それに対するキリスト教的精神観からの批判―」科学基礎論学会、1998年講演会発表
「優生思想とその批判―問題の普遍性―」『中部哲学会年報』第50号(中部哲学会、2018年)161~177頁
「神の知に観られる個―救いの対象―」『日本カトリック神学会誌』第27号(日本カトリック神学会、2016年)251~272頁
「集合知・集積知・神の知」中部哲学会、2019年大会発表
「宗教教育の位置と目的」『日本カトリック神学会誌』第19号(日本カトリック神学会、2008年)49~62頁
本稿、第2部 世界観・人間観の再構築の方向性
―トマスの個体論研究の立場から―
第1章から第8章
「多様化の極限―復活に与かる個体性―」『日本カトリック神学会誌』第17号(日本カトリック神学会、2006年)171~181頁
「恩寵として自然を受取り得る根拠」『日本カトリック神学会誌』第21号(日本カトリック神学会、2010年)109~126頁
「人間の個体認識の問題―トマス『スンマ』Ⅰ,q.86,a.1およびq.89.a.4における―」『中世哲学研究VERITAS』第11号(京大中世哲学研究会、1992年)71~78頁
「トマス・アクィナスにおける個的歴史認識の普遍性」『中部哲学会紀要』第27号(中部哲学会、1995年)51~65頁
「トマスにおける神の働きの対象としての個物―神の内に留まる働きにおける―」『中世思想研究』第32号(中世哲学会、1990年)106~114頁
「トマスにおける神の働きの対象としての個物―神の外なる果に迄及ぶ働きにおける―」『南山神学・別冊』第9号(南山大学大学院神学研究室、1992年)177~202頁
「トマス神学における「個の普遍性」」『中部哲学会年報』第51号(中部哲学会、2019年)119~129頁
「「個物のイデア」はイデアとして矛盾か―トマス・アクィナスのイデア論―」『中部哲学会年報』第47号(中部哲学会、2015年)59~71頁
本稿、第3部 神学的世界観の根本原理―トマスのイデア論―
「トマス・アクィナスの神学におけるイデア論の位置付け」『南山神学・別冊』第7号(南山大学大学院神学研究室、1989年)1~70頁
以上のように各個別の論文タイトルを並べてみると概ね推察されると思うが、本稿はトマス・アクィナスのイデア論を中心とする神学思想の内に、「個の救済」の論拠を尋ねた研究を基礎にし、現代における神学的世界観・人間観の再構築の試みをまとめたものである。本稿で並べて配置した順は、本稿の論拠となるトマスのテキストに即した研究を後に配置し、世界観・人間観についての論議を前に置いた。その方が、より幅の広い問題意識の共有を先に為すことによって、そこで提起され意識化された問題の一つの解決法を、研究としてはより固有な専門性の高い中世思想研究の対象である、トマスのテキストの内に探求していく動機付けを、明確にできると考えたからである。
第1部では、トマスの時代から近代を経て現代に至る諸科学、特に自然科学の著しい進展によって、キリスト教思想やさらに広く宗教思想の世界観・人間観の役割を再確認しなければならない状況にある現在、キリスト教思想の立場から諸科学との対話を試みた拙論をまとめた。その際、自然の原理を探究しつつも、技術を伴って普遍的理想を追求する科学技術の底流を流れる思考法が、普遍知性への傾向性を有していることを指摘し[1]、その傾向性が過度になることによって見失われがちになる個的知性、即ち人間個人の救済に眼を向ける論考を試みた[2]。
第2部では、第1部で主眼にしたキリスト教思想と諸科学との対話の試みを、この現代にも影響作用史の上で連続している問題意識をもって、既に先行し中世において展開していたトマスの論述の中に、「個の救済」を根拠付けることのできる論拠を求めて、現代の我々と中世キリスト教神学者トマスとの対話を為した。と言うより、彼が「聖なる教えSacra Doctorina」と呼ぶ神学の内に「個の救済」についての教えを尋ね、その内容をまとめてみた。
第3部は、トマスのイデア論について、修士論文として提出し受理されたものであるが、それ以後、学会などで発表し第1部や第2部にまとめた拙論の論拠の源泉になるものである。即ちトマスが示すキリスト教神学の世界観・人間観の枠組みの基礎を、「神の知」の内容としてこのイデア論は構成しており、「個の救済」を根拠付ける「個のイデア」も、この論の内に示されるのである。従って本稿の第1部、第2部から、そこでの論述の根拠を尋ねる際、必要となる基礎部分である。
本稿各章が、それぞれに学会での発表論文となっているために、研究内容の進展過程で前提となっているそれ以前の論述を、それぞれの論旨に沿って重複し掲載した箇所がいくつかある。然るに、その重複を避け削除することによって、それぞれの論旨が通らないということのないよう、本稿でも大きく変更しなかった。その点、ご了承いただきたい。
世界観としての神学
さて、現代において神学という学問は、その研究領域を、文献批判、テキストの歴史的研究、キリスト教的実存(生)を扱う歴史実証的学問の領域を専門とし、その学術性を確かにしてきた[3]。ハイデッガーが『現象学と神学』の中で分析した通りに神学の学問性を位置付けるならば、現代の神学研究が実証的な科学の一部門であるのは当然である。現代の大学では、人文科学、社会科学、自然科学に分類される学問領域の中で、各学問はそれぞれに科学の一専門学術領域としての実証性を高めてきた。
しかしトマスが活躍した中世ヨーロッパでは、大学制度が発展し自由学芸など学問の整備がなされていく状況においても[4]、神学の主題は上述した現代における実証的科学の一分野に位置付けられる学術範囲に、とどまるものではなかった。トマスも、プロクロスの『原因論』をアリストテレスの著作とされていた当時の判断から、文献批判によってその著者を探り当てるという業績を残しているが、それは彼の業績としては、極一部である[5]。一般に知られた彼の業績の中心は言うまでもなく、『神学大全』を代表とする体系的(組織的)な著作群にあり、彼が「聖なる教えSacra Doctorina」と呼び表現した神学の立場の世界観に基づく論議こそが、歴史を超えて社会に与えた影響が大きいのである。従って彼の著作を研究することは、彼が様々なサブシステムとして位置付けられる諸知識・科学(scientia =science)を総合・組織化し[6]、メインシステムに体系化した世界観の研究が中心になり、その世界観を研究者が生きている時代の知識と摺り合わせながら、生世界としての神学的世界観の更新を為す作業をすることに、研究の意義があるといってよいであろう。
本稿 第1部 第8章でも触れるが、そうした世界観及びそれを基礎にして示される知識について、封建時代の中世ヨーロッパではトップダウンで与えられる「所与の知」が中心であったと、一般にされている[7]。それは「神の言葉」を示す『聖書』の啓示による「神の知」を起源にして、そこから与えられた世界認識(知)であり、絶対的なものであるとした権威の力で、社会の細部にまで浸透させられたものであったとされる。それに対して、宗教改革、ルネッサンス、科学革命といった近代ヨーロッパの改革運動が、社会の中からボトムアップによる「集合知」への方途を示し、そうした知識の民主化が社会の民主化をも展開し、諸知識の総合の上に大きな進展が世界観にも生じたとされる。近代から現代にかけては、天文学や進化論など、「神の知」の世俗的理解に見られる絶対性を揺るがす科学の諸知識が、それまでの世界観の崩壊を進めていったと、見られている[8]。そしてさらに諸科学自体に、以後も継続したパラダイムシフトが展開してきているのである[9]。
しかし、ここにはもう少し慎重に眺める視点を加えなければならない。そもそも「神の知」(少なくともそこで定義される知)は人間にとっては不可識であって、人間の有限性によって、その無限の絶対性にとどくことはない。従って、その啓示に基づく世界観が崩壊に至ることはない(ただ、逆に不可識ならば人間には認識できないのであるから、フッサールの様に括弧に入れるという方法も示される)。こうした見方にも、例えば現代の科学哲学の領域で解説される「選択観測効果」を、その観点の過去を尋ねて古代・中世の「認識の様態は、存在の様態に従う」という原理に立脚した視点で、理解を進めることもできよう[10]。即ち、人間の有限な認識力が、無限の絶対性にはかとどかないとしても、その有限性を自己の存在について反省することによって補い、徐々に認識の枠を拡大していくことができる根拠を、ここに理解できる。この作業によって、「所与の知」ではなく「集合知」、「トップダウン」ではなく「ボトムアップ」による世界観が形成される[11]。
後の章で繰り返すことになるが[12]、トマスの時代、中世にはこの作業がなされていなかったということはなく、多くの知の集合を為して、例えば『神学大全』即ち「神の知」を伝える神学の体系書を編集している[13]。その視点からは、決して中世の知がトップダウン的な「所与の知」として機能しているだけではないということが理解できるのである。同時に、「集合知」が形成される過程で、多様な見解として歴史的に集積されてきた知も総合される。本稿、第1部 第1章や第2章で、ハイデッガーやフッサール、ガダマーやリクールによる、現代における批判として扱っていることであるが、生世界のメインシステムである世界観も、こうした諸科学等サブシステムからのボトムアップによる体系内の知識、情報の更新を受け付けないクローズド・システムに過ぎないのであれば、それが一時期の生世界を構築していたとしても、次第に通俗的世界観とされるものになる。それこそは、自身を唯一の世界(観)とする主観に陥り、独善的なトップダウンによる排他的立場を示すものなのである。神学的世界観・人間観が、この通俗的な仕方で認識された状況も多々あり、排他的観念体系とされる場合もあった。しかし、少なくともトマスのメインシステムである神学体系は、本稿の同じ章で見られるように、オープン・システムをサブシステムとして機能させ、その時代の可能な限りの更新も実行していた。
一方でこの後に見るように、大きく歴史俯瞰的視座で集合知の形成過程を眺め、この形成される知自体(情報自体)の進化過程に歴史主体を捉える立場も発生する[14]。こうした立場に対しても、上の不可識とする視点に対すると同じく、あくまでも我々人間の有限性を自己反省的に認識し、そこで眺められる歴史主体と、反省される自己との関係を正しく理解する必要がある。
世界観的視座における問題意識
何れにせよこのようにして、世界観の更新は為されていく。改めてここで世界観の重要性を、確認する必要はないかも知れないが、我々は単に自然必然の法則に従って運動しているわけではなく、認識と意志に基づく選択判断によって諸々の行動を為している[15]。世界観はその判断を導く基盤となる生世界として重要なのである[16]。
ただこうした世界観の理解も、一例に最近の世界的ベストセラー教養書であるユヴァル・ノア・ハラリの著書の中に眼を向けると、「想像力、架空の物語、社会のルール・システム」というものへの分析批判に結び付けられる[17]。このユヴァルの考察の底流には、マット・リドレー等が示すと同様の進化過程が描かれているともいえる[18]。それらの現代の教養が見通す未来の方向は、現在、ネット社会とそれの基盤となるAIへと流れが連なるこれまでの歴史を、やはり情報自体、普遍知性、イデア的理想の立ち現れへと向かうものであると、大きな進化過程を描く中で考えられているのではないか。そうだとすれば、やはり本稿で問題としているように、こうして更新を続ける世界観に、神学のナビゲーションが必要となる[19]。そこでは普遍的理想に向かうだけではなく、現実の内に生世界を生きる「個の救済」が課題となる。ユヴァルは、ヴァチカンが十二世紀では現在のシリコンバレーのような存在で、先進の社会を牽引する役割を果たしていたとしているが[20]、しかし今や「伝統的な宗教は、自由主義の真の代替となるものを提供してくれない」とし、「権威の源泉として宗教の聖典」を「思い切り独創的に解釈すれば」と揶揄しながら、その条件の下で「権威の源泉として維持されている」だけの状況であると、現代の神学を分析している[21]。
そこで本稿の目的、役割は、現実の宇宙、生命、人間の歴史に単に自然的進化の過程を看取する立場に対しても、それらの内に見て取られる「全ての存在に」価値創造と意味付与を為し、その価値と意味が浸透した生世界の根拠を示すことにある。本稿でも見る、リクールが説く「説明と了解」の解釈図式での理解をすれば、諸科学の説明がいっそう進展している現代の状況に、意味を了解できる価値観を形成する物語を描き、世界観に位置付ける作業を要するのである。旧約『創世記』の中での「人が呼ぶとそのものの名となるのであった」という表現は、人間がこの作業の行為者であるということを物語っている。この作業を、決してユヴァルが言う「思い切り独創的に解釈」した「架空の物語」にならないよう、諸科学の説明との対話を心がけて、遂行せねばならないのである。
然るに世界観・人間観の内に見られている世界と人間についての知識は、弛まぬ試行錯誤の連続によって、何時の時代も新しい発見で更新されていく。そして一般に認められているように、近代以降は科学技術の進展の速度が増し、世界観・人間観の更新の速度も急速になった。現在では人間について、ポスト・ヒューマンなるその未来像も提示されているが、そうした人間観と今・ここの(私という)人間との関係も考察しなければならない状況となっている[22]。現代は、科学・技術・産業といった人間社会の営みの進歩が、現実的に意識化させられる転換期を迎えている。この転換期において世界と人間を如何なる観念で見るかによって、その意味と価値(判断)が定められる[23]。人間が形成する社会の在り方について見ると、日本の内閣府の第5期科学技術基本計画においても、Society1.0~5.0なる表示の下で、これからの5.0ではサイバー空間とフィジカル空間との融合システムによる社会構成が目指されている。やはりそもそも、そこで生きる人間の在り方を問いかけてみることが必要となるのではないか[24]。
自然現象は、ただただ進展している。それを解釈し生世界とする観念が世界観・人間観である。神学の為すべきことは、この解釈における意味付与と価値創造である。上述の科学技術の進歩も現象の一つであり、その現象はまた、諸現象の新たな認識を開くものである。世界と人間についての認識を拡張し、知識を増大させる。それは世界と人間の在り方を確かに開放している。科学は開放系であるとされるのはこの意味である。しかし、意味や価値は閉じた体系(閉鎖系)である世界観・人間観の中で示されるのであるから、勢いよく認識拡大されていく知識の世界線を辿って[25]、その開放系システムに対応する解釈を見出す役割を神学は担うのである[26]。
神の知と人間の知 目 次
はじめに
世界観としての神学
世界観的視座における問題意識
第1部 科学と神学の世界観・人間観―批判と問題提起―
第1部 第1章 神学と哲学
―現代から見たトマス神学における哲学の位置―
第1節 トマス神学の動機付け
第2節 信仰と理性の調和のモチーフ
第1項 ハイデッガーの論説
第2項 世界観的立場の抗争と調停
第3項 トマスの立場
第3節 結論
第1部 第2章 説明と了解 ―― 科学と神学 ――
第1節 問題提起とその背景―科学の説明と世界了解
第2節 科学と神学の関係:中世、トマス・アクィナスの場合
第3節 自然科学と精神科学:現代解釈学、P.リクールの場合
第4節 まとめ
第1部 第3章 人となられた神と神となろうとする人
―神学と進化思想との対話―
第1節 問題提起
第2節 進化思想にみる人間観とキリスト教的人間観
第3節 結論
第1部 第4章 神は妄想である、ただ救いはそこにある
―神学の世界解釈―
第1節 はじめに
第2節 『神は妄想である』という啓蒙
第3節 デザイン論
第4節 神学の世界解釈
第1部 第5章 神の知は進化思想に溶解されるのか
―トマス神学とデネットが再構築した進化思想―
第1節 本章の目的
第2節 世界観的立場の対立とその解消
第3節 デネットによる進化思想の再構築
第4節 トマス・アクィナスによる「神の知」・「イデア」
第5節 結論
第1部 第6章 科学思想と宗教思想の精神観
―現代の科学思想における普遍精神への傾きと、
それに対するキリスト教的精神観からの批判―
第1節 序 科学と宗教思想
第2節 思想史に見られる普遍精神
第3節 現代の科学思想の精神観
第4節 普遍的なものとして見る精神観に対する一つの批判
―結論に代えての問題提起―
第1部 第7章 優生思想とその批判―問題の普遍性―
第1節 序
第2節 優生思想とその問題
第3節 優生思想・優生学に対する批判
第4節 問題の普遍性
第5節 結語:個の救済
第1部 第8章 神の知に観られる個 ―救いの対象―
第1節 現在の問題の背景確認
第2節 科学と神学の対話
第3節 集合知と神の知
第4節 個の救済と今後の課題
第1部 第9章 集合知・集積知・神の知
第1節 問題提起
第2節 集合知の背景
第3節 歴史的視点での集合知=集積知
第4節 神の知における個のイデア
第5節 結び
第1部 第10章 宗教教育の位置と目的
第1節 本章の目的
第2節 宗教教育の位置
第3節 宗教教育の目的
第4節 結語
第2部 世界観・人間観の再構築の方向性―トマスの個体論研究の立場から―
第2部 第1章 多様化の極限―復活に与かる個体性―
第1節 キリスト教的世界観・人間観
第2節 多様化世界
第3節 思考モデルとしての天使論
第4節 復活に与る個体性
第5節 結び
第2部 第2章 恩寵として自然を受取り得る根拠
第1節 序
第2節 トマスにおける人間の自然本性と恩寵
第3節 恩寵として解釈される自然
第4節 結語
第2部 第3章 人間の個体認識の問題
―トマス『スンマ』Ⅰ,q.86,a.1およびq.89.a.4における―
第1節 序
第2節 身体と結合した魂の個体認識
第3節 身体と分離した魂の個体認識
第2部 第4章 トマス・アクィナスにおける個的歴史認識の普遍性
第1節 問題堤起
第2節 人間の知性認識の様態
第3節 個体に対する知性認識
第4節 個的歴史認識の普遍性
第2部 第5章 トマスにおける神の働きの対象としての個物
―神の内に留まる働きにおける―
第1節 序
第2節 神の個物認識の仕方
第3節 認識されている個物の内容
第4節 結論
第2部 第6章 トマスにおける神の働き対象としての個物
―神の外なる果に迄及ぶ働きにおける―
第1節 序
第2節 天使の個体性
第3節 質料的事物の個体性
第4節 人間の個体性
第5節 世界全体の個体性
第2部 第7章 トマス神学における「個の普遍性」
第1節 序
第2節 神の内に留まる働きにおける対象としての個物
;個物のイデア
第3節 神の外の果にまで及ぶ働きの対象としての個物
;多様化の極限
第4節 個的歴史認識の普遍性
第5節 結び
第2部 第8章「個物のイデア」はイデアとして矛盾か
―トマス・アクィナスのイデア論―
*本章は第3部第1章第3節を抜き出して論じたため、そこに重複する
第1節 問題提起(第3節第4項)
第2節 イデアは存在するか;イデア論導入の必然性
(第3節第1項)
第3節 個物のイデア(第3節第3項)
第4節 結論
あとがき
個の救済
第3部 第1章 トマス・アクィナスの神学におけるイデア論の位置付け
第1節 序
第2節 トマスに至るイデア論の思想史と
トマスのそれに対する姿勢
第1項 トマスのイデア論に至る思想史概観
第2項 イデア論に対するトマスの姿勢
第3節 トマスのイデア論の概要:創造論に機能するイデア論
第1項 イデアは存在するか:イデア論導入の必然性
第2項 イデアの複数性と神の単純性
:イデア論とキリスト教神学との一つの矛盾克服
第3項 如何なるイデアが存在するか
:「事物―イデア」と「神の認識―創造」との関係
1 イデアの性格を決定する神のイデアに対する認識
2 事物とイデアと神の創造との関係
a 悪のイデア
b 第一質料のイデア
c 非有のイデア
d 附帯性や類のイデア
e 個物のイデア
第4項 トマスの個物のイデア理解
第4節 神の知―イデア―御言棄―摂理
:救済論に機能するイデア論
第5節 結論
文献表
1. テキスト類
2. 参考文献
(1)外国語、邦語翻訳
(2)邦語
註
[1] 普遍知性とここで表現したものは、本稿の第1部において扱っているが、概ね次の三つの観点で見ることができる。一つに理想的観点(未来)。また一つに歴史的観点(過去)。さらに一つに主体(実体)的観点(現在)。理想的普遍知性は、未来に向かって進歩、発展を追求する知性を想定している。歴史的普遍知性は、過去の歴史に集積された英知を振り返って見ている。主体的普遍知性は、過去・現在・未来と時間を越えて歴史に対峙し、その意味で現在においても、個々の知性を集約する普遍的な単一知性の在り方を想定する見方である。
[2] 本稿の第1部で扱っているが、中世においてトマスは、普遍精神・知性と呼び得る精神観の思考法に共通すると思われる単一知性説に対して、論駁を為している(第1部 第9章 第4節、参照)。これに関しては、アリストテレス『デ・アニマ』の解釈をめぐっての問題として、当時の様々な論者の内に動機を探ることができる。例えば、ダンテは「人間全体の平和的協働」の「条件作りのために」「普遍的帝政」が「要請される」と主張した。星野倫「ダンテにおける可能知性INTELLECTUS POSSIBILLISの問題」『イタリア学会誌』第67号(イタリア学会、2017年)1—23頁。本稿では、トマスが単一知性説を論駁した動機を、「個の救済」を根拠づけることにあると解釈をし、論を進める。
[3] マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』清水一浩訳(講談社、2018年)159頁。Markus Gabriel,Warum es die Welt nicht gibt, Ullstein, Berlin,2013. 学問的な神学は、文献批判、テキストの歴史研究の領域に位置付けられる。本稿、第1部 第1章 第2節 第1項、参照。ハイデッガーは、このことを厳密に論じた。M.ハイデッガー『現象学と神学』渡部清訳(理想杜、1981年)。M.Heidegger,Phänomenologie und Theologie, Vittorio Klostermann A.M.,1970. リチャード・ドーキンス『神は妄想である』垂水雄二訳(早川書房、2007)89頁。Richard Dawkins,The God Delusion, Brockman Inc.,2006.
[4] 上智大学中世思想研究所編『中世の学問観』(上智大学、1995年)、参照。「特集:中世の自由学芸Ⅰ、Ⅱ」『中世思想研究』第56、57号(中世哲学会、2014、2015年)、参照。
[5] 藤本温「『原因論』と一三世紀のスコラ学」『新プラトン主義研究』第10号(新プラトン主義協会、
2010年)。トマスはSuper Librum De Cansis Expositio.の序文に於いて、Liber De Causisがプロクロスに由来している事を示している。本稿、第3部 第1章 第2節、参照。
[6] 小川量子「スコトゥスとオッカムにおける学問観-神学の学問性をめぐって-」『中世の学問観』(上智大学、1995年)303頁。
[7] 本稿、第1部 第9章。西垣通『集合知とは何か』(中公新書、2013年)44-55頁。ただ、マット・リドレーは、宗教についてもそもそもトップダウンの思考法が、すべてボトムアップによる進化の過程上に現れたに過ぎないとしている。マット・リドレー『進化は万能である―人類・テクノロジー・宇宙の未来』太田直子・鍛原多恵子・柴田裕之・吉田三知世訳(早川書房、2016年)第14章「宗教の進化」336-363頁。Matt Ridley,THE EVOLUTION OF EVERYTHING.How New Ideas Emerge, Harper,New York, 2015.
[8] アレクサンドル・コイレ、『コスモスの崩壊』野沢協訳、(白水社、1974年)。Alexandre Koyre,From the closed world to the infinite universe, John Hopkins Press, Baltimore,1957.
[9] トーマス・クーン『科学革命の構造』中山茂訳(みすず書房、1971年)。Thomas Samuel Kuhn,The Structure of Scientific Revolutions,University of Chicago Press,1962. 本稿、第1部 第8章 第1節。
[10] 存在論上の一般原理として、「働きの様態(modus operandi)は、存在の様態(modus essendi)に従う」ということが広く認められているが、トマス・アクィナスのテキストでも、以下に典拠を挙げられる。Thomas Aquinas,Summa Theologiae,Ⅰ,q.76,a.2,ad.3.; q.77,a.3.ここではこの一般原理が、認識論に適応されている。Summa Theologiae,Ⅰ,q.12,a.4,cor. 藤本温「『原因論』と一三世紀のスコラ学」上掲論文19~20頁、「二.認識の基本原理」参照。また「選択観測効果」については、次を参照。Nick Bostorom, Anthropic Bias: Observation Selection Effects in Science and Philosophy, Routledge,2002.
[11] 本稿、註8、参照。
[12] 本稿、第1部 第9章。
[13] Thomas Aquinas,Summa Theologiae.『神学大全』(スンマ)は、「神の知」を伝えることを意図して編纂された。山田晶訳『トマス・アクィナス』世界の名著20(中央公論社、昭和55年)訳者まえがき、47頁。
[14] 本稿第1部第3章、第6章、第8章、参照。
[15] トマスはその人間論において、「人間は理性と意志によって自らの働きの主である」とし、それが「神の似姿」に方向付けられているとしている。この点について詳論した次の研究書を参照。佐々木亘『トマス・アクィナスの人間論-個としての人間の超越性-』(知泉書館、2005年)
[16] 本稿では繰り返し、この点に注意を向けている。ただ現在の認識では、一義的に世界観・人間観、さらにそれに機能する価値観に基づいて判断をし行動するという理解よりも問題は複雑ではある。自由意志の働きを、例えば脳内作用として捉えれば、それが果たして判断や行為の原因といえるかどうかなど、問題を残している。マット・リドレー『進化は万能である』上掲書、49頁。
[17] ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』柴田裕之訳(河出書房新社、2016年)上35-58頁。Yuval Noah Harari, A Brief History of Humankind, Harper,2011. ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』柴田裕之訳(河出書房新社、2018年)上187-189頁、下255頁、「訳者あとがき」。Yuval Noah Harari, Homo Deus, A brief history of tomorrow, Harvill Secker,2015.
[18] マット・リドレー『進化は万能である』上掲書。
[19] ナビゲーションは、ヘブライ語のナービー、預言者からの派生である。
[20] ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』上掲書、下巻97頁
[21] ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』上掲書、下巻99頁
[22] レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』井上健監訳・小野木明恵・野中香方子・福田実共訳(NHK出版、2007年)。Ray Kurzweil,The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology, Viking,2005. 奥田太郎「何が同一であれば人間は変化に耐えられるか―人新世+トランスヒューマニズム+Post-Truthと倫理学」日本学術会議哲学委員会公開シンポジウム『科学技術の進展と人間のアイデンティティ―哲学・倫理・思想・宗教研究からの問いかけ―』(2019年)
[23] シンギュラリティについても、レイ・カーツワイルのようにそれをユートピアとする観方もあれば、ニック・ボストロムのようにディストピアとして観る立場もある。
WIRED,SERIES・Away from Animals and Machines chapter1-2 https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter1-2/
[24] 平成28年1月22日閣議決定『科学技術基本計画』
[25] 物理用語。但し、熱力学の第2法則によるエントロピー増加の方向に対して、ネゲントロピーの方向を情報(知識)が示しているとの解釈もなされている。本稿、第1部 第9章 第4節、参照。
[26] こうした作業を「出来事の人間化」と表現してもよいかも知れない。ロバート・スコールズ「言語、物語、反‐物語」『物語について』海老根宏、他訳(平凡社、1987年)326頁。Edited by W.J.T.Mitchell,ON NARRATIVE,The University of Chicago Press,Illinois,1980,1981.