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人間の様態

松田語録:握力と認知機能

 握力と言えばチンパンジーは人間の5倍ほども強いとされますが、類人猿はぶら下がり移動で瞬発力のある腕の筋肉の特質を獲得したようです。  様々な生物が環境適応による生存・繁栄の道を辿り、その特質を獲得してきているわけですが、試行錯誤などでの生存・繁栄のエネルギー損失を減らし、最適効率に向けて試行錯誤の結果情報の学習(記憶=情報量)と、予測推論シミュレーション(演算=情報処理)とを実行する脳の特質を獲得した動物が、いっそう生存・繁栄してきたと言ってよいでしょうか。
 その道程を先に進めると「記憶と演算」の特質を抽象して展開することになりますが、それがAI、AGI、ASIへの「抽象された(理想=プラトン的、イデア的)」ベクトルだろうと思います。
 それに対して、人間を眺めた場合、「理性的動物である」という定義というか、現行の様態に従って、「動物」としての生存・繁栄の様態が、その身体性に関連して保持されており、その身体の管理・制御にもエネルギーを費やさねばならない状況にあると言えると思います。
 小脳や大脳基底部の情報処理作用が、その要素に当たると思いますが、身体を有する定義域に存在の位置を定められた人間にとっては、確かに、これも要素として重要であることになると思います。
 ただ、かねてからの問題は、それが人間の個体性を限定するのか、人間の個体性の原理は身体的質料要素とは別に、古来からの表象では形相的「魂」とされるものにあるのか?そもそも「個体性」は幻想であるというブラフマン‐アートマン・モデルに沿った、自然科学的見地に正解を見出すのか?はたまた「死の脱出速度」を超えることで、死すべき個体(個という限定・限界)を無意味化するか?
 結局、現状の人間的知性にとっては「普遍と個」との問題に帰着してしまう気がします。「認知能力と握力」との関係さえも・・・。

 ところで、ペットボトルとそのキャップにしても、缶詰のプルトップやオープナーにしても、こうした人工物も現行人間が、自らの様態と生存環境に適合した「開発」を試行錯誤とシミュレーションとで、展開してきた産物だと思います。
 こうした産物は、現行人間様態を前提にしているわけですが、果して現行人間様態は持続・存続・永続するものであるかどうか?生物進化過程を観れば、当然、その様態は決定的なものではなく、環境適応条件で変化するものだとされます。
 塚本先生のご研究になられるウェラブル製品も、現行人間様態を前提にして、情報の入出力の為のインターフェース開発が為されたり、身体運動機能補助・増強の製品も、同様の前提を持っていると思います。大雑把に見れば、ガンダムの様なモビルスーツが、現行人間様態を前提にした拡張装置だと思います。
 しかし、現行人間の様態が永続するものでないのは、明らかです。環境さえ、地球も太陽も永続しないことが解っていると思います。ペットボトルキャップを開ける握力の必要性などは、現行人間様態の変化によって全く問題にされなくなり、ガンダム型モビルスーツさえ、現行の動物型人間様態の延長的拡張に過ぎないということになると思います。
 プラトンが気付いていたように「生物として血を分けた子供でなく、意識において知を継承する子供」や、モラベクの言う「Mind Children」といった様態を現す、「人間」定義の一方の様態が、問題になると思います。テグマークの「Life 3.0」の様態はそれを表象しているのだろうと思いますが、古来の表象では「天使的」様態とされたものだと思います。中世のトマス・アクィナスは、この天使の様態を、後のカントールに繋がる集合論の要素で論じたと思います。そこでやはり問題にされたのは「個と普遍」との問題で、「一個が一種(普遍)」となる様態を、なんとか示せるように考察を重ねました。『新約』ではパウロが、死後身体を失い普遍一体化が想定される霊魂の救済を、「霊の体の復活」というイメージを与えて表象し、それをトマスは、論理上の考察から根拠を与えようとしたと考えられます。
 何れにせよ、「理性的動物である」という定義の下に置かれる様態の現行人間は、宇宙自然の情報展開過程(進化過程<エントロピー:ネゲントロピー表裏過程<エネルギ―の情報化過程 )の普遍的な宇宙史の観点でも、永続するとは思えず、また、現行人間の個体の死と復活を考察する観点でも、救済対象にならないと思えます。


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