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人に寄り添うこと;受肉
他人に対してやさしくあることを、人生の目標とすることの意味。
他者の幸福を望み、その実現に協力する。
『新約』はその手前で留めています。人の苦しみに寄り添うところで留まりました。『ヨハネ福音』は「御言葉の受肉」、即ち天の父の元からロゴス=父から生まれた(エネルゲイアの自己認識でconceptus自己概念が懐胎され産出)御子が、人間の身になったことを表象します。そして人間の苦しみを「分ち合うcommunicatio」という「十字架」を負いました。
問題はそこからで、「死に至る十字架」を、「復活」で天に上げる=幸福実現としたわけです。「イエス」(ギリシア語逐語訳イエゾース、ラテン語逐語訳Iesusからイエスとなっており、ヘブライ文化ではヨシュアという、日本なら「太郎」=桃の太郎・浦島の太郎・金の太郎…、というポピュラーな名前。)の共同体が実践できたことは、『旧約』の族主義=家族・一族・部族・民族の中心主義を捨てて、その主義により発生する争いや差別を排除すること、それが「新しい契約」であると「伝達commmunicatio」することでした。
他者の幸福が、以上を超えるというか、争いや差別で苦しんでいることへの共感などではない場合、欲求が満たされず不幸だとしているような場合、その他者の幸福を望み、実現に協力することはできなかったことになります。そこには「ご利益」が必要になってきます。「奇跡物語」は、そうした周辺文化を取り込んだと言えると思います。
「ご利益」は現実主義的な望みであり、その現実には権力者の力の作用が必要になります。宗教団体がそうした組織化をしてしまうのも、残念ながら現実です。キリスト教も歴史上はその流れに在ります。
茂木先生の問題提起とは離れてしまいましたが、「他者にやさしくなるために、自分を律する、受容力を持つようにする」というのは、確かに言えることだと思います。「汝の敵を愛せよ」と翻訳されている言葉も、ヘブライ語が「愛する」と「知る」とが同語なので、「敵の立場も知れ」とするのが適切かと思います。すると、敵だとして排除し争うのでなく、立場を知るように話し合うことから、寄り添うことから始めよう、ということになります。
その余裕を持つように、自分を律することを、先生も仰られたのでしょうか。