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全ての主観意識=私が主人公となれる「物語」
茂木先生がここで仰ったことを、中世では「個と普遍との問題」で論じました。そしてそれは「神の知」論で包括されました。
その細部を「物語解釈の循環性」で、リクールやガダマーが論じたと思います。物語そのもので、その理解を示そうとしたのがミヒャエル・エンデで、その典型が『はてしない物語』ではないかと思います。映画『ジュマンジ』にも類型が観られます。
実際、本でも映画でも、「意識」がその「物語」に入って、主観の追体験を(誰しも)するわけで、その影響を受けて実生活を生きる事態も多々あると思います。茂木先生ご自身も、アインシュタインの伝記・記録の影響を受けておられると仰られていたと思います。
『新約』の「復活」のテーマは、少なくともパウロでは、その理解が非常に強いと思います。彼はイエス共同体を迫害する立場にあり、その為の根拠を探って、逆にイエスの言動の正しさを認識した結果、「復活体験」の物語を記して「回心」の途を示しました。
こうした全ての主観意識=私が主人公となれる「物語」を、天の父は無限に宿しているという思考法が、冒頭で言った「神の知」論でもあると思います。
「私の父の家には住まいが沢山ある。あなた方の為に、私は場所を備えに行くのです。」 (ヨハネ福音書14章2節)
(因みに拙稿『日本カトリック神学会誌』第17号(日本カトリック神学会、2006年)171~181頁を、note「第2部 世界観・人間観の再構築の方向性―トマスの個体論研究の立場からー 第2部 第1章 多様化の極限―復活に与かる個体性―」 として上げてあります。)
@kenmogi
いいですねー> 茂木先生がここで仰ったことを、中世では「個と普遍との問題」で論じました。そしてそれは「神の知」論で包括されました。(続きはコメント欄で)
@thomasaqinas2000
上の解釈にご理解賜り、とても感激です!!ありがとうございます!