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万物理論;『旧約』的神概念と『新約』的観念によるその超克
松田語録:物理学者とchatGPTの万物の理論に関する対話
AIの進歩という主題から、また踏み外して出てきた話題に触れたいと思います。
さて、「万物の理論」を原始・古代から人類は求め続け、その段階で、ともかく「全ての源」として「エネルゲイア現実態」という呼称を与えたと思います。
そのエネルゲイアの作用様態を徐々に、限定した現象に対象化して認識し、情報=知識ソフィア・scientia として、その分析が精密になっていったのが「学」であり、それを学習して技術応用フィードバックできるようになって専門家が、社会の相互エージェントとして活動してきたと思います。 エネルゲイアはアリストテレスの言う思弁学の領域で、後に分類される形而上学や神学では、完全(純粋)現実態、存在そのもの(自体)として宇宙作用(全ての源)を表象しますが、エネルゲイア自体の自体的作用は「思惟の思惟ノエシス・ノエセオス」というエネルゲイアの「自己認識と自己概念」を表現するものだとされます。
この作用の内側の厳密に分析された対象が、諸学になっていくわけで、物理学における「万物理論」も、その一つであると思います。以前からコメントで書いているように、イギリスではギフォード講演でのテーマであるとか、日本でも上智の柳瀬神父様が『宇宙理解の統一を求めて』というテーマを掲げていらっしゃいました。諸学が厳密に諸学の対象分析をして法則や原理を見出し、それを宇宙全土に統合・総合して、大きなノモス法の内にロゴス理拠を見出す、そこで万物理論が見いだされるのではないか、という探究のシナリオが、原始・古代から現在まで続いてきたのだと思います。
AIは、このシナリオを人類の情報プール(集合集積知)を、与えられ学習した分だけは提示できるようになっており、人間の生体個体脳の諸制限を超えているとは思います。松田先生も、ご自分がお書きになられた本も「忘れていた」と仰られましたが、そうした人間的制限・限界をAIは補助する能力があると思います。
ただ、問題はAIが学習する情報プールも、人類の集合集積知に留まるならばノエシス・ノエセオスの域に、即ちASIと表現され、神とも表象される「エネルゲイア」それ自体には、全く到達できないということになると思います。人間の自然言語や数式などの、人間的表象形式を超えた思惟作用、即ちノエシス・ノエセオスの作用に如何に向かうか?それが究極の問題だろうと思います。古代のアリストテレス辺りも、既にそう考えていたのですが・・・。
先ほどのコメントに続く内容で、以前から言ってきたことも書きます。
人類の中で「神」として概念を形成してきたものは、あくまで共同体社会の統率者、王、君主についてであると思います。だからこそその典型に『旧約』があり、他の文化圏、例えば日本でも『古事記』『日本書紀』等は、『旧約』の編集構成に酷似していることが示されるのだと思います。これは恐らく社会性動物の中で連続的に適応進化した形質、行動だろうと思います。クジャクの羽やビッグホーンの角などオスの形質に始まり、ゴリラのシルバーバックやライオンの鬣などに繋がり、力・権力の象徴として、「頭に油注ぐ」エジプトの即位式=『旧約』のサムソン=大相撲のびん付け油などに伝承され、その後「冠」となり、社会階級「冠位」に成ったりしたと思います。
それに対して、先のコメントに書いた「エネルゲイア」の探求は、宇宙自然の根本原理を求めたのであり、それを観察や観測で、ある程度、情報獲得した者が、共同体の統率者に乞われて専門家として相互エージェントとして活動し、人々から「神々」と呼ばれるようになったと考えられます。次第に、その神々の呼称が、その専門家集団の対象とする自然現象にも適用され、神々になった可能性もあります。あるいは、専門家集団の先祖崇拝の場を「社」としただけかもしれません。ただ、自然現象の一部とその応用に留まらず、知識を総合する「学者」も現れたのであり、哲学と神学の歴史を創った人達が人類史に集合集積知を築いてくれたのだと思います。
面白いのは、一方の『旧約』的「神」概念を、ある意味で否定し、その問題を超克していこうとした者達が、他方の「宇宙自然の根本原理」を探求した者達の中から出てくるということです。
典型はソクラテスでありプラトン、そしてアリストテレスです。権威として固定観念に陥ることを否定したソクラテス、理想国は哲人政治によるとしたプラトン、衆愚に陥らないように正しく民主的統治を為すよう方向づけたアリストテレス。世界中で、もっと例はあると思いますが、ローマ普遍国家構想以前に、こうしたギリシャの思考モデルがあったことを理解する必要があると思います。
そして一番、面白いのは、『旧約』的神概念を超克していこうとしたしたのが、ユダヤ教哲学者フィロンであり、その同時代人イエスについて物語った『新約』であるということです。
この時代はローマ帝国の初期でもあり、どうやら上で見た人間的神概念を何とか乗り越えようとしていた時代でもあるように思えます。ローマ自体は皇帝は死後天上界に上る神々の一人であるという表象を残そうとしたようですが、そうした観点を、正統『新約』編集の立場はグノーシス主義として排除しています。『福音書』にはイエスの出生の場が、両親がエジプトからガリラヤに戻る途中とされていますので、上エジプト、アレクサンドリアの港に沈んだ街辺りの思想・文化を受継いでいる気がします。フィロンは、まさしく当地で活躍しました。
こうしてみると、『新約』的な世界観とは、現代の視点では、「エネルギーの情報化」を宇宙自然に正しく認める観点であるなどと言える気もします。『旧約』で示される家族・一族・部族・民族の族主義、自己中心主義を超克するのは、正しく宇宙自然の世界観を求める立場であるということになる気がします。「野の百合、空の鳥を見よ。栄華を誇ったソロモン王さえ(そうした自然生命に)至らない。・・・・、明日は明日が考える」とは、宇宙自然は宇宙自然が考えるということに他ならないと思います。