人間にとってのロゴスとノモス
人工知能の時代、動物化する世界の中で想うこと
ドット・コミュニズムが展開するにしても、古来の衆愚な民主制への傾向や、ダニング・クルーガー効果の問題は潜在すると思います。そうした事態に対して、教育・啓蒙が為される必要を、これまた古来から言われてきていますが、その程度の如何で、現状をつくっているのでしょうか?
はたまた、茂木先生の専門分野で言えば、前頭前野の作用が情動を抑えきれなくなる状態に陥る人の割合が増えてきたのでしょうか?軍事力・警察力という「力」による抑止が、民衆には向けにくくなって、野放図な状態を示すのでしょうか?
スティーブン・ピンカーの様な統計的楽観論からすれば、「人類」が、宇宙自然の情報展開過程に与する役割は、加速度的に増しているのかもしれませんが・・・。
このところ「主観意識」の問題を考えて、トノーニの「統合情報理論」において「統合」という相転移が起きるMore is defferntの閾値を観たいと思っていましたが、結局その視点は、逆に統合より還元に向かう気がしてきました。分析をするわけですから、当然と言えば当然ですが・・・。
では「統合」が発生したその相のシステム層を、人間の主観意識として作用している状態に目をやると、そこに「人間の尊厳」を保証する科学的根拠が見いだされるのか、と思いましたが、必ずしもそれはなく、尊厳を保証しなければならない意識状態ばかりではないことに、思い至ります。まさに、この動画で「動物化する」と先生が仰られたような意識も発生するわけです。
そこで、ふと思うのは、結局、人間社会にとってはロゴス(理拠)よりも、ノモス(法)が、人間を規定していくものだということです。科学的根拠を戦争禁止の為に提示できるのか、人殺しをしてはならないというロゴスを示せるのか?示せるのであれば、とうに「人類」はしている気がします。その根拠は、結局、「法(ノモス)に基づく」としているのであって、ロゴスに基く説明はできていない気がします。キリスト教の教えにして、殉教死があるものとしており、救済は「復活」を説くという仕方で、死を禁止する根拠を示せていません。堕胎禁止なども寧ろ、自然に即して「神の意志」と表現している気がします。
要は人間社会で規定する法=ノモスの重要性が、逆に浮き彫りにされるという気がしてきました。主観意識も社会の中で、相互に大切にすることを、もっと認識していく必要があると思います。自分の主観意識に、他者の主観意識を反映させる、即ち、他者の身になる、これが、『新約』の教えの中心でした。御言葉=神の子の受肉とは、それを表現しています。『旧約』のノモス=旧法の超克が、新約のストラテジーであったことを、再確認すべきであると思いました・・・。これを宗教と別に語る「教育・啓蒙」が必要なのだと思います・・・。