死の効用
死について思いを巡らすことが多くなった。
可愛がってくれた祖父母たちは、あの世に行ってしまったし
同じ年代、あるいは年下でさえ、さっさと旅立ってしまった奴らがいる。
歳を重ねることで、死が身近になり
死を身近に感じるようになって、歳を重ねてきたことを実感する。
世の中「絶対」というものはそうそう無い、と思っているが
誰にとっても死がやってくるというのは、どうやら絶対のようだ。
生きている限り、死ぬ。
死ぬということは、生きることと切っても切れない関係のようだ。
当然ぼくも、いつかは死ぬ。
そう思って、図々しくも堂々と、今日も生きている。
ところが、今の日本では、死は隠されたり遠ざけられたりする存在だ。
こうして死について話すことを縁起でも無いと嫌がる人もいるかもしれない。また、よく言われることだけど、家で死を迎える人が減り、病院や老人ホームで死を迎える人の方が多くなり、死を目にする機会は減ってきている。
誰もがいつかは迎え入れなければならない死。
その時まで、死は避けておいた方がいいのだろうか?
ぼくには死んだ記憶がないので、死が良いとか悪いとかは言えない。
それは死んだ時のお楽しみとして、とっておこうと思っている。
ただ、こうして生きている側から死を眺め、想像することはできる。
例えば、誰もが死にゆくことを思ってみる。
好きな人も、嫌いな人も、誰も彼もだ。
そうすると、嫌なことがあったとしても、同じ死にゆくものとして、少しくらいのことは赦せるような氣がしてくる。なんだか少し優しくあれるような氣がしてくる。
死はいつ訪れるかわからない。そう思ってみる。
そうすると、これを書いているぼくも、背筋が伸びる。
生きることに、丁寧になる。
もしかしたらこれがその人との最後の時間となるかもしれないと思ってみる。
そうすると、小さなことでケンカすることがバカバカしくなってくる。
死んだら財産は持っていけないと思ってみる。
そうすると、お金のことで争ったり、悩んだりして時間を費やすより
生きてる間に色々経験しておきたいと思うようになる。
お金のために死ぬなんて、なんだか本末転倒だと思えてくる。
死んだら何にも感じなくなるのかなと思ってみる。
そうすると、喜びだけでなく、痛みとか哀しみとか、普段避けている感情すらも生きているからこそ感じることができるんだと思え、それすら味わっておこうという氣さえしてくる。
こうして死を考えるてみると、知らず知らずのうちに、生きることに繋がってくる。
だからぼくは、死を抱えながら、生きようと思う。
だからといって、まだまだ死ぬ氣は毛頭無い。
どうぜいつか死ぬ日は来る。
だから、それまで生きることを味わっておこうと思う。
それまでの命を味わい尽くして終わりが来たら
その時は思いっきり死を味わえるような氣がする。
あるものをあるうちに慈しむ。
それが、幸せへの鍵だと思う。
お金のために何かをするのではなく、好きなことをしたことでお金を頂戴できると幸せです。僕という人間の存在に対して、サポートをしていただけたら、それほど嬉しいことはありません。よろしくどうぞ!