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正しさ

その昔、インドネシアのギリ・アイルという島で仲良くなった子が家に招待してくれて、ご飯をご馳走になったことがあった。

その時、ご飯を作っていた奥さんがふと僕に
「ねえ、豚肉って、美味しいんでしょ?」
と恥ずかしそうに、それでも意を決めたように聞いてきた。

イスラム教では豚肉を食べることは戒律で禁止されている。

「豚肉も美味しいよ」と答えると
「やっぱり美味しいんだ!」と目を輝かせて遠くを見たので、思わず僕は笑ってしまった。

それで彼女が豚肉を食べるかというと、そんなことはないかもしれない。

ただ、「これは悪いものだ」と教えられたものを盲目的に信じるのではなく、本当にそうなのかなと疑って聞いてしまう彼女の素直さが、僕にはなんだか嬉しかった。


どこの国であれ、誰であれ、この世に生まれ育つ中で、正しいとされることを教えられる。善と悪、良し悪しをインプットされ、それを指針として日々を過ごしていく。

ただ、育っていく中で、正しいと教えられたこととは違うこと「正しい」とする人たちと出会うことになる。

豚は食べたらダメ絶対。そう教わった。周りの人もみんなそうしてる。なのになんであの人は平気で豚を食べるんだ。

「彼らは間違ってる」
自分は正しく生きていると信じるゆえ、相手が間違っていると決めつける。

相手の間違いを指摘して、批判して、自らの正しさを押し付ける。

世界を見渡しても、自分自身の身の回りを見ても、そんな「正しさをめぐる争い」が多い氣がする。


相手を変えないと、今まで信じてきた自分の正しさが崩れてしまう。

だから、必死になる。

でも、こっちが必死になればなるほど、相手も必死になって、こちらの間違いを非難してくる。

お互いそれぞれ正しいと信じて疑わないから、ことはなおさら厄介になる。

そうやって、世界は争いを繰り返す。


でもだよ。

そもそも、万人にとっていつでも正しいことなんてあるのだろうか?
「絶対正しいこと」なんてもの、本当にあるのかいな?

もしそれがあるのであれば、それ以外をやってる人は間違ってることになる。でも、少なくとも僕は、そんな確固たる見たことがない。昔はあると思っていたけど、今はもうそんな夢からは覚めてしまった。


例えば自分自身のことを振り返ってみても、昔は「自分は絶対に正しい」と信じて誰かとやり合っていたことが、いまとなっては相手にも相手の言い分があったな、と氣恥ずかしくなる。

つまるところ、「正しさ」というものは、場所によっても時間によっても人によっても変わるような、ふらついた存在なんじゃないかと考えるようになった。


もしそうであれば、自分が正しいと思ったことに誰かが反していても、それはそれで自分の正しさを脅かすものではなくなる。

ただそれぞれが信じる「正しさ」が違うというだけの話で。どちらも正しいということが成り立つ。

そうなると、相手をどうこうするよりも、自分が信じることをやるのに忙しくなり、無駄な争いがなくなっていく。

働かなくてはならないと信じている人が働かない人を見て非難することもないし、部屋は綺麗じゃなきゃダメだと信じてる人が汚い部屋に住む人を非難することもできない。

働くことが大切であれば働けばいいし、掃除したければ掃除すればいいし、掃除したくなければ掃除しなければいい。ただそれだけのこと。

僕らはそれぞれ、自由だ。

人の数だけ正しさがある中で僕らができることといえば、自分自身が正しいと思うことを選び、その選択の責任を自分で負うことくらいだ。

そう考えるようになると、他人に寛容になれ、少し自由になった氣がした。そしてその分だけ、日常が平和になったような氣がした。



お金のために何かをするのではなく、好きなことをしたことでお金を頂戴できると幸せです。僕という人間の存在に対して、サポートをしていただけたら、それほど嬉しいことはありません。よろしくどうぞ!