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家族の物語に埋もれて(後編)

(前編はこちら)

「両親のような人生」をようやく手に入れた僕は、「両親を超える人生」を志向し始めた。

そこには大きな問題があった。
これまで「両親のような人生」を手に入れるために頑張ってきたのだが、そのためには両親の歩んできた人生をただなぞるだけでよかった。
これから「両親を超える人生」を手に入れるためには、まず「両親を超える」とはどういうことなのか?を定義する必要があった。そのためには、自分固有の価値観に照らして考えることが求められた。
これまで両親のコピー人生を歩んできた僕にとって、それはかなり難しいことだった。
自分自身の価値観ではなく、両親の生き方に照らして、あるいは、世間で語られる言葉に従う形でしか価値判断を行ってこなかったからである。

僕はやむなく安易な答えに飛びついた。
「両親を超える」を「両親よりも出世する」と定義して、そこに活路を見出そうとした。
そして、子どもの頃に勉強を必死でがんばったのと同じように、今度は仕事にのめり込んだ。

そこから5年の時間が流れた。
最初に配属された現場の部署から本社に引っ張ってもらった頃、僕は子どもの頃に見た両親と全く同じことをサラリーマンになってからも繰り返していることに気がついた。

その頃の生活は、平日は毎晩遅くまで働いて、遅くに家に帰ってからもPCを眺める日々だった。あの件は大丈夫か、スケジュールはギリギリだが何かトラブルは起きやしないか、常に不安でたまらなかった。夢に仕事で関わる人間が毎日のように現れるようになった。その内に一睡も眠ることができなくなった。目のクマがどんどんひどくなった。
休日は憂さを晴らすように昼から酒を飲んだ。自分を仕事から引き離すために酒が必要不可欠で、気づけばアルコールに依存していた。酒が回ってくると、心の中に蓄積した悪感情が前にどんどん出てきて頭を掻き乱す。そして行き場のない不満を心の中に抱えて不機嫌な気持ちを妻にぶつけた。
過食が止まらず、気づけば学生の頃から体重が30キロくらい増えた。毎朝鏡を見て自分のあまりの醜さに、涙が出そうになった。
そんな僕の姿は子どもの頃に見た仕事に追われストレスでおかしくなってしまっている両親そのものだった。
(余談だが、妻とは同じ大学で出会って結婚した、そこも両親と同じだった)

仕事のストレスでめちゃくちゃになっていた僕は、それでも「両親を超える」=「出世する」にしばらくしがみ続けたのだが、ある時期からそれも瓦解していくことになる。

それは、ある晴れた日曜日の午後だった。
僕は東急東横線のドア脇に立って、窓の外の景色を眺めていた。もうすぐ30歳になるタイミングだった。
ふと、中学生の頃に父親が脳出血で倒れた日のことを思い出した。あの時、父親は40だった。父親は昼も夜もなく猛烈に働いた結果、40で寝たきりになった。今、僕も同じように自分の健康を犠牲にして、必死で働いている。同じことを10年続けていけば、父親と同じような運命を辿るのかもしれない。そうなると、僕の人生はあと10年しかない。次の10年は両親のコピーのように生きていても、僕はきっと幸せにはなれないだろう。そろそろ生き方を変えた方が良い。
その考えは妙に腑に落ちると共に、じゃあこれまでの生き方は何だったのか、これからどうすればよいのか、と深く絶望的な気持ちになった。自由が丘駅で降りてホームのベンチに座り込んで、これから先どうしていけばよいのか、僕はしばらく途方に暮れた。

それから半年もしない内に僕は「うつ状態」と診断され、長い休みに入ることとなる。
30年近く埋もれてきた家族の物語から突然離脱して、療養の日々の中で自分の物語を模索していくことになったのだ。

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