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映画『メトロポリス』と渋沢栄一の夢
NHK大河ドラマ『晴天を衝け』がクライマックスを迎えています。あと最終回を残すのみとなりました。改めて渋沢栄一の生涯をたどってみて、日本の資本主義の発展にいかに貢献したのかがよくわかりました。何よりも、そのパワフルな生き方に感銘を受けました。渋沢栄一は、1840年(天保11年)に生まれ、1931年(昭和6年)にその生涯を閉じています。渋沢の晩年、1929年に1本のSF映画が日本で公開され、大きな話題となりました。フリッツ・ラング監督のドイツ映画『メトロポリス』です。
(見出し画像は、映画『メトロポリス』が日本で公開された時につくられた宣伝資料<ポスター兼プレス・シート>の実物です。百年後の世界が舞台ということになっているので、日本における公開年1929年から百年後の「2029」の文字が散りばめられています。アール・デコの影響も感じられるデザインが素晴らしいです。)
『メトロポリス』の描いた未来
映画『メトロポリス』は、「SF映画の金字塔」と言われることが多いと思います。映画をジャンル分けする際、そのストーリーやテーマに応じてジャンルを与えられる場合(恋愛映画、ホラー映画など)や、設定や舞台の特徴に着目する場合(SF映画など)、映像表現の手法に応じて分類する場合(アニメ映画など)があると思います。
『メトロポリス』の場合、百年後という年代設定(製作時から100年とすると2026年。なんと、あと5年です!)、現代(映画製作当時)からすると全く架空の科学技術の存在などからSF映画とされています。しかし、そのテーマは、映画製作当時から現在に至る100年の間、常に議論されてきた現実的問題、すなわち資本主義のあり方についてなのです。
科学技術の進歩した百年後、巨大な高層ビルが立ち並ぶ未来都市。素晴らしく豊かな世界が広がっているように見えます。しかし、その実、その豊かさを享受するのは一握りのブルジョワジーのみであり、多くの労働者は苦しい生活に耐えていました。資本主義経済の発展の結果、資本と知識を独占する資本家階級と搾取され続ける労働者、この両者の格差は拡大し続け、両者の分断は深刻になっていました。
この両者の間を「心」で取り持ち、仲介し、融和を作り出さなければならない。労働者の娘マリアはそう思っていました。その主張に多くの労働者が共感し、労働者たちは団結していきます。
その団結を崩すことをたくらんだ資本家がマリアを誘拐・監禁します。また、資本家をたきつけた科学者がマリアに似せたロボットを作り、そのロボットに労働者を扇動させます。労働者たちは、資本家たちに対する不満を爆発させ、暴動をおこし、未来都市を半ば破壊します。しかしその結果、労働者の子供達の多くが犠牲になります。労働者たちは、自分たちがマリアだと信じていた扇動者を火あぶりにし、それがマリアでなかったことを知るのです。
拘束から逃れた本物のマリアは、必至に労働者たちを説得します。マリアに心を寄せる資本家の息子の尽力もあり、資本家と労働者たちは最後に手を結ぶことになります。
楽観的な結末?
この結末は、非常に感動的ではありますが、かなり楽観的と言わざるをえません。暴動によって、資本家、労働者双方に大きな被害が生じたことをもって、このようなことをしても誰も得をしないと思わせる流れ、これを扇動したマリアは偽物だった、というようなところから、両者が手を結ぶという行動に納得できないわけではありません(蛇足ですが、いかに自分たちを扇動したからといって、その扇動者を火あぶりにするというのは、明らかに行き過ぎです。中世の魔女狩りのようです)。
ただ、今後どうやって社会を築いていくのか、これまでの資本家・労働者間の格差、分断をどのように埋め、問題を解決していくのか、そこは全く白紙なのです。「話せばわかる」とだけ言っているような印象を受けるのは残念です。そこは、映画を観た人にどうすべきなのか考えてもらう、問題提起ということなのでしょうか。
フリッツ・ラング自身は、当初労働者側が資本家を打ち負かす結末を考えていたそうです。しかし、妻であり脚本家のテア・フォン・ハルボウの意見をいれて、考えを変えたとのことです。
もし、労働者側が勝利する結末であれば、随分と主張する内容は違ってきます。要は、資本主義を放棄し、共産主義・社会主義革命を支持するかのごとくの内容となるわけです(この映画がつくられる直前、1917年にはロシア革命が起き、22年にはソ連=ソビエト社会主義連邦共和国が誕生しています)。
これに対し、最終的にできた『メトロポリス』は、資本主義を単純に追い求めることの危険を示し、資本主義をコントロールしながらより良い形で進め、資本家も労働者もみなが豊かになる社会をつくっていく必要があると主張しているわけです。
渋沢栄一の夢
渋沢栄一は、資本主義によって日本を豊かな国にすることを目指しました。また一方で、資本主義によって一部の人のみが利益を上げることには徹底的に反対していました。その著書の中で、「道徳経済合一説」を唱えたことからも明らかなように、経済によって一部の人の豊かさを実現するのではなく、社会全体で富を共有することこそが重要であると主張したわけです。
現在、渋沢栄一の目指した資本主義社会はどこまで実現できているでしょうか。渋沢が携わった通貨、銀行、株式、鉄道、海運、都市計画などなど、日本における資本主義をささえる諸制度は確実に定着、発展してきました。しかしながら、経済格差の問題は、日本を含む世界各国における共通の課題として残っています。
資本主義はもともと、利益を追求する私企業、私人のインセンティブによって社会が発展することを基礎にしています。その場合、努力する人と努力しない人に、同じ収入を与えることはできません。それでは、誰も努力しなくなってしまいますから。頑張った人がそれにふさわしい恩恵を受ける。これこそが、共産主義や社会主義より資本主義が勝っているポイントなのです。これがあるからこそ、人は頑張るのです。
ただ、いろんな事情で頑張りたくても頑張れない人もいます。頑張ってもなかなか成果が出ない人もいます。成果が出ても、それが十分な収入につながらない人もいます。そういう人たちを放置するのではなく、資本主義による発展の成果を皆で共有していく社会的なシステムが必要なのです。
資本主義一択。しかし・・・
東西冷戦の終結によって、資本主義・自由主義が共産主義・社会主義より優れていることが示されました。そもそも、共産主義・社会主義のように、個人の自由より社会全体を重視する考え方は、人間ひとりひとりが幸せになることの意味を軽視しており、共感できるものではありません。そのことに加えて、経済的な発展という観点からも、明らかに資本主義が優れていることが示されたのです。それが、20世紀における人間社会の壮大な社会実験によって得られた一つの結論だったわけです。
しかしながら、「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」というカール・マルクスの理念自体は否定できるものではありません。それが実現できればどれだけ良いでしょう。それは追求すべき理想なのだとは思います。資本主義、自由主義によって人々のインセンティブを沸き立たせながら、一方で必要としている人に分けていく、そのバランスが求められているのです。
最近、我が国の国内政治でよく言われる「成長と分配のバランス」とはそういうことなのです。つまり、「成長」のためには、「勝ち組」にどんどん褒美を与えて、ますます勝たせていくのがよいわけです。しかし、それでは「勝ち組」だけがどんどん豊かになり、それ以外の人はいつまでも豊かになれません。かといって「分配」ばかり重視すれば、「勝ち組」として社会に貢献できる能力がある人も、やる気をなくしてしまいます。そこで、能力に応じてみんなが頑張れるようにしつつ、どのようにして公平に富を分けていくのか、それを工夫する必要があるわけです。
グローバリゼーションの試練
グローバリゼーションの進展は、この格差の問題をより深刻にしていると言われます。経済や人がますます国境を越えて動くようになると、国ごとの制度を均質化する方向に圧力がかかっていきます。それは、自由貿易協定や経済連携協定などの形で行われていくわけですが、国境によって守られる部分が減っていくと、いろいろな形で保護されている産業などが国際的競争にさらされていきます。これは世界全体の経済発展(「成長」)には良いわけですが、弱者を守る観点(「分配」)からはマイナスになるわけです。
そうすると、それぞれの国が国内の弱者を守るための施策を様々に調整し、強化していく必要が生じます。逆に、「これ以上の弱者支援の強化は無理だ」という指導者・政府は、国際的な連携にブレーキをかける方向に出るわけです。アメリカのトランプ前大統領がその典型的な例です。
近年の各国における選挙の候補者の公約を見ると、必ずと言ってよいほど、格差是正のための施策が盛り込まれています。累進課税の強化や最低所得保障制度の導入、社会保障の充実など、これは各国それぞれの事情によって、その実情に応じた具体的施策を決めていくということだと思います。それは、それぞれの国の民主主義的意思決定によって資本主義・自由主義経済を修正するということです。つまり、「民主」によって「自由」を適切にコントロールしていく必要があるのです。
このように、『メトロポリス』と渋沢栄一がともに主張した課題は、現在においても取り組まなければならない重要性を持っているのです。
晩年、渋沢栄一は、『メトロポリス』を観たのでしょうか。もし観ていたとしたら、その主張には強く共感したでしょう。ただ一方で、自分の主張してきたことがなかなか難しい課題であることを、痛感したのではないでしょうか。