第1章 どす黒い奔流 (3)
若きウクライナ兵の手紙
パパ、ママ、イリーナ。
生きてもう逢うことはないと思うので、僕が最後の日々をどのように生き、どのように死んでいったか、私の愛するあなた方に知ってもらいたくて、この手紙を書きます。
まず、あなた方に知ってもらいたいことは、僕は今、幸福を感じているということです。そして死に対する恐怖はありません。絶望や苦しみの中で死んでいくのではないということを知ってください。
昨日、生まれて初めて人を殺しました。そうです。ロシア兵です。川を挟んで200メートルくらい先の国道を走る戦車を、ジャベリンという対戦車小型ミサイルで僕が破壊しました。おそらく最低3人は乗っていたでしょう。彼らは鋼鉄の棺桶の中で、生きたまま灼熱の炎で焼き殺されたのです。
昨夜は農家の馬小屋で野営しましたが、僕は朝まで眠れませんでした。僕が行った行為とそこから生まれた感情が、ユーリー・パーヴロヴィチ・ポレヴァノフを破壊したのです。
パパ、ママ、イリーナ。
僕のことを子供の頃から、全てに疑い深く、神を信ぜず、虚無的な子供だと感じていたと思います。でもそれは誤解です。僕の心の奥底には、無条件でこの世界の全てを愛する感情、有る種の生に対する情熱のようなものがあったのですが、それと社会の色々な仕組みとの折り合いが付けられ無かったのです。僕の情熱の対象であるこの世界の真実と比べると、社会は全てが嘘で固められていると思ったのです。僕が大学の哲学科に進んだのも、このことを考え続けるためでした。
今回の祖国防衛戦争に、僕は誇りをもって参加しました。侵略者に対して国を守り、自由を守り、愛する人々を守るために戦う、我々に正義があると信じていました。正義は邪悪にかならず勝つとも信じていました。
ところが昨日、この手で、鉄の棺桶の中のロシア兵を焼き殺した瞬間、若い、おそらく僕と同い年と思われる兵士の魂が、僕に乗り移ったように感じました。
彼である僕は、軍の命令で突然ウクライナ侵略の手先になりました。そこに正義があるのかないのか、僕には分からない。ただ命令に従うだけです。命令に従う以上、できるだけ多くのウクライナ人を殺さなければならない。自分はそれに努力するでしょう。国には妊娠したばかりの新妻を残してきた。徴兵期間が終われば、家業のインテリア会社のデザイナーとして働くことになっている。幸福な家庭を作るモチーフである家具とインテリアに、僕はこの上ない愛情を抱いているのでした。
そんな夢に浸っていた時、突然、目の前が真っ白になり音が消え、肉体と意識が沸騰した熱湯のように蒸発していくのを感じて、意識を失うのです。
僕がミサイルの引き金を躊躇なく引けたのは、相手が戦車だからでした。その中にロシア兵が乗っていることを知っているとしても、それは抽象的な人間であって、僕にとっては「もの」に過ぎない。彼は「もの」として焼き殺され、彼の幸福な人生は、彼の意思に関わらず無慈悲に切断されたのでした。
そしてその瞬間、今度は彼にとって「もの」である僕が、彼が発射した砲弾によって貫かれ肉片が飛び散る瞬間を、僕は感じたのです。
彼である僕、僕である彼は、自分が邪悪の暗黒の濁流に飲み込まれて、無限の深さの恐ろしい虚無の海底に向かって沈んでいっていると感じました。
僕は、どんな死も無意味であるという点では同じだと思っていましたが、これは違う。こんな死に方はおかしい。何かが間違っている。僕はそう思いました。
何が間違っているんだろう・・・
一晩寝ずに考えて得た結論は、こういうことです。
僕にとってのこの戦争は、正義が僕に戦うことを命じるものです。彼にとっての戦争は、国家が彼に戦うことを命じるものです。いや、プーチンが命じたものであって、彼は国家ではない。そういう言い方をする人は、戦場に立ったことのない人です。
銃弾と銃声の網の目をくぐって、砂埃と硝煙にまみれながらほふく前進する兵士は、どうやって恐怖を乗り越えると思いますか?恐怖を乗り越える力は、敵への憎しみしかないのです。そしてその憎しみの元が、国家であり正義なのです。
この2つは全く同じものです。彼も僕も、自分の魂が命じるところによってではなく、自分以外の何かが命じるところによって、敵を憎み、敵を殺すのだという点において、全く同じだと言っているのです。
この自分を超えた何かによって、互いに人間ではなく「もの」となり、憎しみによって殺し合う。その結果としての、「もの」の死を、僕は受け入れることはできない。こんな「邪悪の暗黒の濁流に飲み込まれて、無限の深さの恐ろしい虚無の海底に向かって沈んでいく」死は受け入れられない!と僕の魂は叫びます。彼の魂が叫んでいるのが聞こえます。
そしてその瞬間、今度は彼にとって「もの」である僕が、彼が発射した砲弾によって貫かれ肉片が飛び散る瞬間を、僕は感じたのです。
彼である僕、僕である彼は、自分が邪悪の暗黒の濁流に飲み込まれて、無限の深さの恐ろしい虚無の海底に向かって沈んでいっていると感じました。
僕は、どんな死も無意味であるという点では同じだと思っていましたが、これは違う。こんな死に方はおかしい。何かが間違っている。僕はそう思いました。
何が間違っているんだろう・・・
一晩寝ずに考えて得た結論は、こういうことです。
僕にとってのこの戦争は、正義が僕に戦うことを命じるものです。彼にとっての戦争は、国家が彼に戦うことを命じるものです。いや、プーチンが命じたものであって、彼は国家ではない。そういう言い方をする人は、戦場に立ったことのない人です。
銃弾と銃声の網の目をくぐって、砂埃と硝煙にまみれながらほふく前進する兵士は、どうやって恐怖を乗り越えると思いますか?恐怖を乗り越える力は、敵への憎しみしかないのです。そしてその憎しみの元が、国家であり正義なのです。
この2つは全く同じものです。彼も僕も、自分の魂が命じるところによってではなく、自分以外の何かが命じるところによって、敵を憎み、敵を殺すのだという点において、全く同じだと言っているのです。
この自分を超えた何かによって、互いに人間ではなく「もの」となり、憎しみによって殺し合う。その結果としての、「もの」の死を、僕は受け入れることはできない。こんな「邪悪の暗黒の濁流に飲み込まれて、無限の深さの恐ろしい虚無の海底に向かって沈んでいく」死は受け入れられない!と僕の魂は叫びます。彼の魂が叫んでいるのが聞こえます。
今、この瞬間に生きている「僕」は、別の存在だと思ってください。僕が殺したロシア兵であり、パパであり、ママであり、イリーナであり、全ての「いのち」になりえる、何か。決して正義にも国家にも、邪悪にも虚無にも支配されえない、本当に自由な何かです。
その何かである別の存在が、あなたがたの幸福を自分の喜びとして感じつづけます。
永遠に。
2022年3月10日
戦火の中のキーウにて
ウクライナの戦場で書かれた、ユーリー・パーヴロヴィチ・ポレヴァノフという若者の手紙は、ひと言でいって、「ものがたり」の邪悪さを私に突きつけるものでした。1人を殺せば殺人になり、100人を殺せば英雄になる。裁かれる殺人がある一方で、美化される殺人がある。これは人間社会のまぎれもない事実です。この事実ほど、私たちがいかに「ものがたり」の中で生きていて、「ものがたり」に支配されているかを証明するものはありません。しかも、「ものがたり」は自分の正統性を主張するために、他の「ものがたり」を侵略し、抑圧し、強姦し、破壊するのです。
本当に、どす黒い奔流とは、我々の文明なのです。清らかな水を濁らせているのは、「ものがたり」無しには生きていけない、私たちの脆弱さであり、傲慢さなのです。
こうして、私は大きな問いにぶち当たったのでした。
人間は「ものがたり」無しには生きていけない。だが「ものがたり」の中で生きる限り人間に自由はない。どうすれば人間は「ものがたり」を克服することができるのか? 克服した先にある自由とは何なのか?
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