第4章 日本人の生きづらさの本質(5)
5. 「外なる法」と「内なる法」
ここで改めて、「法」という概念を取り出して考えてみることは価値があります。なぜならば「法」は共同体の「ものがたり」の代表格であって、構成員個人の認識と行動に影響を与えるミクロ的機能と、共同体に正統性を与え、維持し、闘争を導くというマクロ的機能の両方を持っているからです。
法とは、まず第1にルール、規則であって、人間にある行動を禁止したり許可したり、強制したりする基準です。そしてそれは家庭、学校、会社、国家などのそれぞれの共同体ごとに独自のものとして存在し、ビジネス、恋愛、政治といったゲームとしての「ものがたり」ごとに固有のものとして存在します。
法は第2に善と悪を区別する基準です。つまり人間の行動を拘束し規制する基準である上に、そこに価値観、倫理、道徳といった善悪の要素が加わるのです。人を殺すことは、単に法が禁じているだけではなく、それは人間として許されない行為だと人々は認識しています。
善と悪を定める基準としての法が、そもそも人間が初めて作り出した「ものがたり」でした。このことは5章で詳しく述べますが、人類最初の「ものがたり」は、いのちの世界と死後の世界をつなぐ、霊媒師の語りであり、やがてそれが体系化した神話でした。神はその共同体にとっての善の象徴であり、悪魔は悪の象徴です。悪を退け善である神に従うかどうか、つまり共同体の掟という法に従うかどうかが、共同体の一員になるための認証の基準だったのです。
次に、「外なる法」と「内なる法」という概念を深堀りしてみましょう。
「内なる法」とは、私たちが行動するときの基準となる、「そうすべきでない」「こうすべきである」という基準です。一方、「外なる法」とは、単純に窃盗は犯罪であるとする法律であったり、「万引きをする少年は、ちゃんとした大人になれない」という、共同体が私たちに要求する「望ましさ」だったりします。
ここで考えてみたいのは、「外なる法」と「内なる法」の関係です。
前の章の万引きをした息子の話では、父親と母親にとっての「外なる法」は、「万引きをする少年は、ちゃんとした大人になれない」という点で一致していました。しかし父親が、「内なる法」(違法であると知っていて行動したならば、その責任は自分で引き受けろ)に従うことが「ちゃんとした大人になることだ」と主張したのに対し、母親は自ら原状復帰(カメラを元に戻す)することで「出来事」を無かったことにすればいいと、「内なる法」の必要性を否定しています。
この例はちょっとなので、分かりやすいよう単純な例を用います。このエッセイでは何度も登場させて恐縮なのですが、「人殺し」の是非をとりあげようと思います。
以下、「人殺し」に関する「外なる法」と「内なる法」の組み合わせのカテゴリーを6つ挙げました。
1 日本のような平和な社会、良識ある国民が多数を占める社会では、「人殺し」に関して「外なる法」である法律(刑法)と、「内なる法」である人々の価値観、行動基準は一致しています。
2.一方、殺人犯は「人を殺してはいけない」と理解していても、金品を強奪したいという欲望や、怒りや憎しみの感情に押し流されて、「内なる法」が機能しない状態に陥っていると考えられます。これをB(A)と表しています。Bは「人殺し」を是とする価値観です。
3.「外なる法」は殺人を禁じているが(A)、「内なる法」は殺人を肯定している(B’)場合もあります。革命の時代、戦国時代、下剋上の時代にしばしば見られる現象ですね。大義に基づく殺人、確信犯としての殺人、復讐としての殺人です。
4.戦争のような状況では、「外なる法」が殺人を奨励します(B)。ロシアに侵略されたウクライナの兵士やレジスタンスに加わる国民は、祖国の自由と独立という大義の為に1人でも多くのロシア兵を殺害することが個人の行動原理(B)となっているはずです。また、古くはヒトラーのユダヤ人撲滅論、現代ではトランプのプロパガンダや習近平の大中華論など、独裁者や強権的国家の指導者が定める大義としての「ものがたり」 には、独善的なものがままあります。これらに洗脳され、あるいは鵜呑みにして従う 国民や支持者にとっては、同じように「外なる法」と「内なる法」が一致しています。
5.一方、戦争や大量虐殺に正統性は無いと確信し、「内なる法」(A)に従って「外なる法」(B)に従うことを拒否する、「白いバラ」(ドイツの大学生らによる非暴力の反ナチ運動)やロシア兵の良心的兵役拒否という例もあります。
6.そのような例がある一方、大部分の国民は、「内なる法」(A)に従って「外なる法」(B)に従うことを拒否すれば、自分にとんでもない災難が及ぶことを知っているので、自分を守ろうとして、「外なる法」(B)に従います。これが自己愛です。戦争どころか日常生活の小さな場面で「空気に従う」日本人が多いことは、前の章の論証した通りです。
結局、共同体の「ものがたりに支配されている」ということは、自己愛のために「内なる法」と背反する「外なる法」に、「内なる法」が浸食されている状態を指すことになります。そして、「ものがたり」の支配力は、共同体が私に強いる「望ましさ」である「外なる法」が、私の行動基準である「内なる法」にどれほど影響を及ぼすしているか、という度合いによって決まります。6の場合は私の心に葛藤が生まれる余地がありますが、1や4の場合には、「内なる法」の持ち主は「外なる法」を信じ切っていますので、共同体の「ものがたり」支配力はとても強いということができます。*
日本人の生きづらさは、「外なる法」によって「内なる法」が浸食され、融解してしまった時に感じる葛藤なのですね。ところで、共同体が私に強いる「望ましさ」が、法律や規則や、独裁者の命令やプロパガンダであれば、それはそれで分かりやすいのですが、これが「空気」となると、それを理解し自分の行動原理とすることには大きな困難が伴います。
このあたりの事情を、日本でありがちな「ムラ的共同体」の場合について考えてみましょう。(続く)
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