
Photo by
aoneko
良くなくていい。美しくありたい。
最近出会った言葉で好きな言葉がある。
それは、「良いは定義できるが、美しいは定義できない」というものだ。
この言葉に出会ってから「美しい」という言葉がより好きになった。
例えを挙げてみよう。
「この包丁はすごく良いんだよ。」
この言葉を聞いて何を想像するか。
大多数は、包丁の“切る”という“機能”が良いのだと判断するだろう。
切る機能でなくても握りやすさだったり軽さだったり。
「良い」という言葉はそのものの持つ機能を評価する言葉だ。
その機能に則って定義が容易にできる。
一方で、
「この包丁は美しい。」
一気に難しくなる。
使用している際の美しさなのかもしれない。
ただ置いてあるだけでも風情があるのか。
包丁自体ではなく、その向こう側にある長い歴史を感じたのか。
「美しさ」とは文脈に依存するのである。
誰が言ったのか、どのような包丁に対して言ったのか。
熟練の料理人なのか、素人なのか。
鮮やかで妖艶な包丁なのか、ボロボロで錆びついた包丁なのか。
ボロボロで錆びついた包丁は美しいかどうかは人に依るだろう。
主観に依る、というのは定義ができないことと同義なのだ。
なんならその包丁は包丁としての機能を果たしていなくてもよい。
ナマクラでも重くても握りにくくてもいい。
「美しい」にはそんな不完全さをも受け入れてくれる寛大さがある。
“美しい”人間でありたい。
そう切に願う。