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才能の遅咲き、について考える

もうすぐ45歳になるんですけど、最近になって、ようやく「歯磨き」と「爪切り」のコツというか、セオリーというか、そういうものを理解してきたように思うんですよね。

歯磨きについては、「電動歯ブラシ」という新しいテクノロジーが現れたことによって人生の途中で一度リセットされたということもあるのかもしれませんが、爪切りに関してはそんなに大きなイノベーションは起こっていないので純粋に僕の方の感覚の変化に依るものだろうと思うんです。

いや、コツというほど大それたものではなくて、他の皆さんなら当たり前にやっていることだと思うんですよ。主に、角度とか、力の入れ方とか、そういう感覚的なものです。
極細毛先のブラシを、歯茎と歯の間を狙って軽く当てる、というときの角度と力加減、みたいな感じ。
爪切りは、切れ味とか形状とかをふまえつつ、どの指のどの爪なら、どういう角度でどう切るのか、みたいなところ。

なんだろな。どちらかというと「新しく知った」というよりも、「これまで感覚的にこなしていたものを、理解した」、、、いや、もっと手前の「意識した」くらいかもしれないんですけども、なんにせよ、一歩進んだ感じがするんです。

思い返してみると、子供の頃に叩き込まれた競技スキーの技術は、正直、全く上達しなかった。ひどいものでした。
小学校の時のソフトボールもだめ、中学でやったバスケもだめ。

つまり、「センスもないのに、理解をせずにこなしていた」んですね。まぢで。

何でそんなことになってるのかなぁと考えてみると、存外にシンプルなところに辿り着きました。
僕は、「言語の理解/表現」については、センスの塊だったんです。少なくとも、子供の頃は。
運動よりも日常的な頻度が圧倒的に多いんですよね、言語コミュニケーションって。それをセンスで乗り切ってしまうと、理論の理解をしなくても良い、となってしまう。

そのため、自分が不得意なことを「できるようになるために、ちゃんと学ぶ」ということができなかった。
数学とかも、中学校レベルまでは、深く考えなくてもできたので、つるっと優等生になれた。
が、高校でつまづいた。理論を理解する、ということができなかった。
だから、多くが国公立理系を狙うクラスにいながら、センスで乗り切れる文系に鞍替えして、私立文系に進学した。

大学に入り、卒業して社会人になり、なんやかやと苦労もありつつ、なんとか凌ぎ切って生きていたのが、コンサルに転職して爆死。
得意なはずの言語コミュニケーション、言語理解/表現が、そのままでは通用しない。
生まれて初めて「センスだけじゃなくて、理論で勝負しないとダメ」な状況に追い込まれたんだな、、、と今、気づきました。
そっか。だから、あんなに苦しかったのか、、、。

そこを乗り越えてからは、「たとえ得意な領域であっても、理論を理解することが大切」ということを体験として身につけたので(そのように、今日まで「理解」してなかったけど)、少しずつ、不得意なことに対しても「理論」を学ぶようになった。

とはいえ、自ら意識的に学ぼうとしないもの、つまり、爪切りや歯磨きについては、経験による慣れ、で乗り切っていたわけです。
決して、センスがあるわけでもないのに。

こうして考えると、まだまだ、僕には「伸ばせる才能」があるんじゃないか、という気がしてきたんですよね。
遅咲きの才能があるんじゃないか、と。

これまで、他人と伍して戦えるのは、日本語を用いた言語コミュニケーションの領域だけだと思ってたんですよね。ファシリテーションとか、パワポ作成とか、物書きとか、そういう奴です。
ただ、それに加えて、なにか、遅咲きの才能ってものがあるんじゃないか、という希望を持った、、、いや、持ちたくなっちゃったんですよねー。

他人様に迷惑をかけない程度に、少し、あれこれ挑戦してみたいなと。

永遠に生きるかのように学べ。

この言葉、いいですよね。がんばろ。

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