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【歴史のすみっこ話】桶狭間で勝者と敗者を分けたのは何ですか?=その3=

■今川義元って五男なんですか?

前回、東海の守護、今川家は今川範国いまがわのりくにから始まります、と書きました。ここで、今川義元いまがわよしもとの父、今川氏親いまがわうじちかまでのその系図を書くとこんな感じになります。

今川範国いまがわのりくに範氏のりうじ泰範やすのり範政のりまさ範忠のりただ義忠よしただ氏親うじちか

こう書くとすんなりと家督が譲られて行っているように見えちゃいますが、家督争いなどもあり、また今川義元いまがわよしもとの父、今川氏親いまがわうじちかの代でも家督争いがあり、氏親うじちかの母親(北川殿きたがわどの)の弟である伊勢新九郎いせしんくろう(一般には北条早雲で通っていますね。もっとも本人が北条姓を名乗ったことはないそうですが)の助力もあって、今川氏親いまがわうじちかが、家督を継いでいます。

さて、その今川氏親いまがわうじちかの子が、今川義元いまがわよしもとになります。
永正16年(1519年)に生まれたとされています。
もっとも、そういう記録があるというのではなく、永禄3年(1560年)に桶狭間で討ち取られた時が42歳だったと言われていることから、数えの年齢を逆算して求められたものです。
なので何月何日に生まれたか、ボクにはわかりませんでした。

なお、今川義元いまがわよしもとは、長子でも次子でもありません。
今川氏親いまがわうじちかの長子は氏輝うじてる、次男は庶子である玄広恵探げんこう えたんとなります。

今川氏歴代の伝記である『今川記』では、「氏親の息男そくなんあまたあり。男三人、其の他、女三人あり」となっているそうです。

なので、今川義元いまがわよしもとは三男とみるのが妥当と思われるのですが、有光友學氏や小和田哲男氏は今川氏親いまがわうじちか息男は庶子もいれて六人いて、義元は五男、と推測しています。
(確かに、今川彦五郎という人物も記録にはあり、これが義元の兄ならば、義元は三男ではなく、四男の可能性もありますが)

いずれにせよ、今川義元いまがわよしもとは当初、今川家の跡取りではなく、幼いうちから仏門に入りました。

この仏門入りの理由も、いくつかの説がありますが、紹介していくと長くなりそうなので割愛させていただきます。
 
また歴史学者の黒田 基樹氏は、義元は庶子であったという説を唱えているそうですが、それを裏付ける史料は、現時点ではまだ見つかっていないようです。

幼くして臨済宗善徳寺というお寺に入った義元のために、今川氏親いまがわうじちかは、太原崇孚雪斎たいげんそうふせっさいを招いてます。
この太原崇孚雪斎たいげんそうふせっさいは後に、内政・外交・軍事のあらゆる面で、今川義元いまがわよしもとを支えたと言われています。

天文五年(1536年)三月十七日、仏門に入っていた今川義元いまがわよしもとの人生を大きく変える出来事が発生します。

今川家を継いだ今川氏輝いまがわうじてると、今川彦五郎いまがわ ひこごろう二人が、同じ日に亡くなるという不可解な出来事が起きます。今川氏輝いまがわうじてる、まだ24歳の若さでした。
となると、今川彦五郎いまがわ ひこごろうはもっと若い年齢となりますので、両名とも、年齢による死亡とは考えにくくなります。
(尚、今川氏輝いまがわうじてるは柔弱だったという説があります)

当主であった今川氏輝いまがわうじてるが亡くなり、子供もいなかったため、今川義元が後継の当主として多くの指示を得たのですが、義元の兄の玄広恵探げんこう えたんは、今川家の家督を継ぐための戦い、花倉の乱はなくらのらんを起こすのでした。

【つづく】

■参考文献


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