【歴史のすみっこ話】桶狭間で勝者と敗者を分けたのは何ですか?=その2=
■今川義元は源氏である
・・・ってなに、これ?ヘ(゚д゚)ノハァ。「結城友奈は勇者である」をパクったような見出しは?とお思いの方も多いでしょうが、ボクは声を大にして言いたいです。
そうですね・・・なんとなく・・・パクっちゃいました・・・、と(小声)。
いや、本当は「東海一の弓取り」の二つ名を持つ今川義元が尾張の国に攻め入ったのは、上洛が目的だったというのは、主流の説ではないということを書くべきなんでしょうが、この今川義元、いろんなドラマでは、もう信長の引き立て役というんでしょうか、桶狭間で信長に討ち取られるために出て来てるような役回りが多いような気がします。
確かに、武田信玄や上杉謙信、毛利元就などのような、〇〇といえば、この戦!という後世に語り継がれるような合戦が浮かんでこない、というかみんなが思い浮かべるのは、義元が首取られた「桶狭間の戦い」だよ!歴史に残る負け戦だよ!
織田信長好きな人>>>>越えられない壁>>>>今川義元好きな人
多分、人数でいえば、こんな感じになるような気がします。
まぁ、そうなるのは、わかりますよ、ええ。けどね、でもね、でもね・・・。
もう少し、今川義元に好意的でもいいんじゃないですか?
ということで、今回は、歴史好きの方なら、いまさらでご存じのことでしょうが、今川義元は源氏の流れをくむ戦国大名であることを書かせてください。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」前半のメインキャストである源頼朝は源氏の名を高めた 源義家(通称、八幡太郎義家)の直系で義家からは5代目にあたります。こんな感じです。
源義家ー義親ー為義ー義朝ー頼朝
あ、ちなみに 源義家のお母さんは、平直方という平氏の人の娘さんです。
なので源義家、平氏の血も、きっちり入ってます。
平直方は娘を、源義家の父である源頼義に嫁がせたこともあったからでしょうか、後に鎌倉の経営を源頼義に譲ったとも言われています。
源氏と鎌倉とのつながりはここから始まるのかも知れません。
さて、源義家の三男に義国というのがいました。
この義国、ちょっとやらかしました。そしてすったもんだのすえ、ミカドの怒りをかってしまい(これを「勅勘」というそうです)、大人しく下野国の足利荘(栃木県足利市)の経営をすることになりました。
そして、義国の子、義康は足利荘を譲り受け、足利氏の祖となります。
足利荘+源義康=足利源義康。足利氏の爆誕です。
ちなみに足利義康から8代あとが、足利源尊氏です。室町幕府作っちゃいます。
足利源義康ー義兼ー【義氏】ー泰氏ー頼氏ー家時ー貞氏ー尊氏
足利氏の祖である足利義康から3代目の【足利源義氏】ですが、なぜだか長子(長男)ではなく次子(次男)の泰氏に足利氏を継がせています。
長子(長男)の長氏には、吉良庄(愛知県幡豆郡吉良町から西尾市あたりの地域と思われるそうです)を譲ります。母が側室だったから説がありますが、長男ですが足利氏は継げませんでした。
吉良庄を譲り受けた長氏は、足利源長氏から吉良源長氏となって、はい、ここで吉良氏、爆誕です。
この吉良氏の子孫が、赤穂浪士で有名な吉良源義央、みなさんがよくご存じの吉良上野介です。
なんでしょう、時代劇ではあまりいい風に描かれない人が多いような気がしてきました・・・。
話を戻して、吉良源長氏の子供に、国氏という子がいました。
長氏は国氏に、吉良庄の一部、今川(愛知県西尾市今川町と思われるそうです)を与えます。
今川氏の祖、今川源国氏、爆誕です。
そして今川源国氏の孫の、今川源範国は室町幕府成立期に功績が大きいとされたので、建武三年に遠江国の守護に任じられ、さらに二年後の暦応元年には駿河国の守護にもなります。
ここに東海の守護、今川家が始まります。今川源義元は今川源範国の子孫になります。
ということで、ややこしいですが、今川義元は源氏である、なのです。
この毛並みの良さが、上洛説が生れた要因のひとつかもしれませんね。
ちなみに、織田信長は平氏と言ってたようですが、当初は藤原氏だと言ってたようなので、ちょっと疑わしいですね。