【歴史のすみっこ話】昭和メロディメーカーズ
大正、戦前・戦後の昭和に活躍した著名な作曲家の中山晋平が、初めて詩人の西條八十の詩に曲をつけたのは大正9年の秋、「月と猫」という作品だった。
そして次に西條八十とコンビを組んだのは大正12年春の『肩たたき』であった。
緑内障を患い晩年目が不自由になった母の肩をたたいたり揉んだりした西條八十の体験がモチーフになっているというこの詞に、曲をつける中山晋平に対し、西條八十は編集者を介して、詩人らしい注文をつけていた。
『言葉のアクセントを活かしたメロディをつけてください』
中山晋平も西條八十の期待に応えるべく、暖かく優しいリズミカルな詞に、メロディを紡いだ。
ところがー。アクセントが違ってしまうのだ。
最初の『母さん お肩を たたきましょう』のメロディのままで、『母さん 白髪が ありますね』を歌うと、『白髪』のアクセントが微妙に違ってしまうのだ。
『お肩』と『白髪』は同じメロディでは、アクセントを守って歌うことが成立しない。これでは西條八十の希望に応えることはできない。
「うーん・・・୧( -᷅_-᷄ )୨」
一瞬考えた中山晋平は、答えを出す。
「よし、『お肩』と『白髪』は、メロディを変えよっか。_φ(•ᴗ•๑)」
こうして「肩たたき」の歌は出来上がり、西條八十はその完成度にいたく感銘をうけたという。
昭和に入って、お正月に相応しい歌をという依頼で、西條八十が『毬と 殿様』を作詞している。
てんてん手毬 てん手毬・・・から始めるこの詞に曲をつけたのも中山晋平だった。
「てんてん手毬・・・うーん・・・୧( -᷅_-᷄ )୨」
ここでも中山晋平は考え、西條八十の作詞自体に手をつけた。
「てんてんてんまり てんてまり の方がリズミカルになるよね _φ(•ᴗ•๑) 」
そして『毬と 殿様』の歌も、広く子供たちに歌われるようになる。
北原白秋の詩は別にして、中山晋平は『しばしば歌詞に「手をだす」』ことがあったようである。
この時、中山晋平は西條八十とまだ交流を深めてはいない。
昭和に入り作詞家として活躍しだす西條八十の『当世銀座節』の作曲を機に二人は交流を深め、やがて『東京行進曲』、『東京音頭』の名曲を世に送り出すことになる。
※ちなみに「肩たたき」はメロディが違っていることを初めて知りました💦マジっすか~😱
■引用・参考資料
『唄の旅人 中山晋平』 著:和田登
『流行歌(はやりうた) 西條八十物語』 著:吉川潮