歴史フィクション・幕末Peacemaker 【07】~生麦事件(02)=島津久光 参府工作=~(2343文字)
ー1862年9月14日(文久2年8月21日)。
江戸から京へと東海道を進む行列があった。
参勤交代の大名行列ではない。
いや、行列の主、島津久光は藩主でも無ければ、元藩主ですら無い。
現藩主の父として、国父と敬われ、実質的藩主といってもおかしくはない権力を有していたが、それはあくまでも藩内に限った話であった。
藩内から一歩外に出れば、たちまち無位無官の存在になってしまう立場である。
平時であれば、行列を率いて江戸に行くことなど決して幕府は許さなかったに違いない。
それを実現せしめたのは、有能な家臣たちの存在があった。
しかし、その有能な家臣たちを、異例ともいえる抜擢で要職に就かせ、活躍の場を与えたことは、行列の主、薩摩の島津久光の功績であり、久光は決して暗愚のリーダーではない。
薩摩の島津久光の行列は、とある目的のために国元の薩摩から(江戸に)参府しており、今はその帰りで、京へと向かっていた。
とある目的とは、幕政進出であった。
久光の兄でもある、幕末期の名君と呼ばれた島津斉彬の意志を継ぎ、幕政進出を果たすべく、久光は機をうかがっていた。
長州藩の直目付(じきめつけ=藩主直属で、藩政全般を監査して藩主に上申する役職)である長井雅楽が、公武合体並びに西洋列強との通商条約を容認し、海外進出を推し進め、通商をもって日本の国威を西洋列強諸国に対して大いに示す、『航海遠略策』を幕府に示し、これを朝廷に献策したいと願いでたのは、今より数か月前、当時の暦で言えば、文久元年12月のことであった。
幕府の老中、安藤信正はこの提案に対し、もろ手を挙げて乗った。
勅許(天皇の許可)を得ずに、西洋列強諸国と通商条約を結んだことにより、朝廷はもとより尊王攘夷思想の志士たちからも批判の矢面に立たされていた幕府にすれば、『航海遠略策』は、朝廷との融和を図り、尊王攘夷の志士たちの批判の矛を収める妙案であった。
長州藩は『航海遠略策』を藩是(=藩の方針)として採用し、これを契機に、長州藩は外様大名の身分ながらも、幕政進出をもくろむ。
弁舌に優れる長井雅楽は、藩命により朝廷の公家たちの説得につとめ、ほぼ了解を得るに至った。
その功により、長井雅楽は1962年(文久2年)に、中老格へと列せられる。
長州に先を越された。長州藩の動きに最も衝撃を受けたのは、幕政進出の機会をうかがっていた薩摩藩の島津久光であったに違いない。
しかし、無位無官の島津久光が江戸へと出向き、幕政参加の道を切り拓くためには、参府を幕府が認める大義名分が必要であった。
「まずは、藩主茂久様の江戸への参勤交代を延期させること。これが叶わなければ久光様の参府は絵に描いた餅になる」
藩主が参勤交代で江戸へ参府したあとに、その父である久光が幕府に参府を願い出ても許可が下りることはあり得ない。
久光の大抜擢により、驚異的スピードで出世を続けていた、27歳の小松帯刀(文久2年12月に家老となり、実質的に薩摩藩No2の地位につく)は、薩摩藩きっての外交手腕の持ち主、小納戸役の堀次郎にそう含ませ、江戸行きを申付けた。
堀は江戸に向かう途中、島津家近親の福岡藩など立ち寄り、藩主茂久の参勤交代延期の協力を要請し、さらに京では島津家と姻戚関係にある、公卿の近衛忠房とも接触し、久光の国事周旋の趣旨を説明するという事前工作を行う。
しかし、江戸での、藩主茂久の参勤交代延期の工作は、堀次郎をもってしても困難を極めた。
以前より何度も参勤交代延期を行っていたことから、これ以上の延期はまかりならんというのが幕府の見解であった。
「致し方なし。他に手がないならば、奥の手を使うまでじゃ」
1862年1月6日(文久元年12月7日)、堀次郎は芝(三田四国町)の薩摩藩藩邸(上屋敷)に自ら火を放つ。
尚、この火災により、薩摩藩藩邸だけでなく、『隣接する鳥取新田藩藩邸と町家一千軒が類焼した』(『小松帯刀』高村直助(著)より)とある。
巻き添えを食った者たちにすれば、とんだ災難であった。
藩主の居所である薩摩藩藩邸(上屋敷)が焼失してしまえば、藩主の住む場所がないため、藩邸(上屋敷)が再建されるまでの間、参勤交代を延期する口実になるだろう、堀次郎はそう踏んだのであった。
尚、この放火を島津久光や小松帯刀が、事前に知っていたかは不明であるが、堀次郎が独断で行ったものとは考えにくい。
果たして堀次郎の読み通り、幕府は参勤交代猶予を許可した。
更に、それだけにとどまらず、『江戸城造営費献金残額四万両および木曽川治水普請七万二千両の免除を、あわせて天璋院との続柄を名目に藩邸造営費二万両の貸与(実際は返済義務がない給付)も認めている』(『島津久光=幕末政治の焦点』町田明広(著)より)。
天璋院の存在があったとは言え、外様の薩摩藩に対して、かなりの厚遇である。
最初の使命を果たした堀次郎の次なる使命は、一橋慶喜と松平春嶽の謹慎解除と要職登用の実現のための水面下の工作であった。
この工作にめどがたてば、久光の幕政進出は現実味を帯びてくる。
幕政進出、それは久光の兄、島津斉彬が望みながら、病による急逝で叶わなかった悲願でもあった。
【続く】
■参考文献
『島津久光=幕末政治の焦点』
町田明広(著)
『小松帯刀』
高村直助(著)