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You[信長]は何しに京へ?(~桶狭間から上洛までの9年間、いろいろありました編2~)[3344文字]

前回は信長が美濃攻略のために小牧山城を築城し、敵対する織田信清の居城、犬山城を永禄7年、もしくは永禄8年頃に攻め落としたところまで書かせていただきました!ヽ(≧▽≦)ノ。

信長が犬山城を攻め落としたのは永禄7年、もしくは永禄8年頃ってわかってないんかい ( º言º) 。

美濃の稲葉山城を落とした年もかっては議論がありましたからね。太田牛一が『信長公記』にきっちりと何年のことか書いてくれていませんからね~。本当にそういうとこやぞ、牛一 (´-`)。

ちなみに、小牧山城については『信長公記―戦国覇者の一級史料』で著者の和田裕弘氏が興味深い指摘をしていますヽ(≧▽≦)ノ。

小牧山城の築城は美濃攻めのための橋頭保の確保と見られていたが、近年では直接の目的は犬山城の攻略と推測されている。
 
これを裏付けるように、[信長公記]「首巻」にも小牧山から二十町離れた犬山城の属上である小口(おぐち)城から遠望すると、築城の様子が手に取るよう見えたため、このままでは籠城できないと判断し、<進上候て、御敵城、犬山へ一緒に楯籠り(たてこもり)候(小口城は開城し、籠城兵は犬山城へ入って一緒に籠城した)>と記されている。

『信長公記―戦国覇者の一級史料』著:和田裕弘

へー、犬山城攻略のために小牧山城を? ( º言º) 。

とはいえ、美濃攻略のためでもあったとは思うんですけどねヽ(≧▽≦)ノ。

信長は犬山城を落とすために、まず支城を落としてから、犬山城を取り囲んで落としているんですね。
犬山城の支城である小口城は、小牧山城から二十町ほどの距離だそうです。当時は一町の距離は地域によってまちまちだったそうですが、仮に110メートルとすれば、約2.2kmとすぐ近く。
そんな近くに、しかも山城で上から自分たちの城を見下ろされて、まる見えになる形で小牧山城が作られているのを目の当たりにしたら、これは籠城するよりも犬山城ににげようとする気持ちも・・・ヽ(≧▽≦)ノ。

わかるんか? ( º言º) 。

いや~、わかんないですけどね!ヽ(≧▽≦)ノ。
でも築城を見せつけて、相手に精神的プレッシャーをかける作戦って、よく思いつきますね!信長、エグイ!ヽ(≧▽≦)ノ。

おまえ、それ、ちっとも褒めてないやろ ( º言º) 。

ともあれ、支城をすべて落として、犬山城を取り囲み陥落させたわけですが、その犬山城陥落を知らせる書状を、信長は9月9日の日付で、上杉家の家老、直江景綱(なおえ かげつな)に送っています。
谷口克広氏はこの書状から以下のように犬山城が落ちたのは永禄7年と見ていますヽ(≧▽≦)ノ。

よって先月濃州に相働き、井口(稲葉山城)近所の取出(とりで)の城を所所々に申し付け候。しからば犬山落居せしめ候。その刻金山(兼山)居に候」(『歴代古案』)

 前後の様子から、この書状の発給年は、永禄七年(1564)と思われる。
 犬山城攻略はこの年の八月頃と見てよいだろう。

「織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで」 著:谷口克広

ところで、なんで上杉氏の家老あてに信長は書状を? ( º言º) 。

そこですよ!大河ドラマでは描かれることがないですが、この時期の信長が他の大名たちとどういう関係でいたか、興味ありますよね!ヽ(≧▽≦)ノ。

いや、別に ( º言º) 。

そうでしょう、そうでしょう。さっそく見ていきましょう!ヽ(≧▽≦)ノ。

人の話、きいてる? ( º言º) 。

まず上杉謙信との関係から。もっとも早い時期として永禄七年と思われる、6月9日付の直江景綱(なおえ かげつな)あての信長の書状があります。
そして、それから、信長の一子を、子どものいない謙信の養子として預ける話が出ています。
谷口克広氏によるとこの話は、どうも信長から切り出したようです!ヽ(≧▽≦)ノ。
11月7日付けの直江景綱(なおえ かげつな)あての信長の書状では以下の様に書かれていますヽ(≧▽≦)ノ。

「殊に御養子として愚息を召し置かるべきの旨、まことに面目(めんぼく)の至りに候」(『上杉家文書』)

信長、ずいぶんとへりくだってますやん ( º言º) 。

上杉謙信あてじゃなくて、家臣の直江景綱(なおえ かげつな)あて送って、謙信に披露してもらうという形をとっているそうで、これは相手に敬意を払っていることの証しらしいです!
ところで、理由はわかりませんが、この養子の話は結局立ち消えになったそうです!惜しい!ヽ(≧▽≦)ノ。

しかし、なんで信長は謙信に養子をだそうとしたんやろか? ( º言º) 。

それは、『織田信長 (中世から近世へ)』で著者の芝裕之氏が説明していますが、武田信玄との対立によるものなのです!ヽ(≧▽≦)ノ。

甲斐武田氏は天文二十三年(1554)八月に信濃国伊那郡を制圧、この時、信濃国衆の木曽氏を従属させ、やがて東美濃衆の岩村遠山氏とその一族の苗木遠山氏が甲斐武田家に政治的・軍事的保護を求めて従属する。

これをうけて、美濃の斎藤道三は娘婿の信長とともに武田氏と対立し、遠山領で戦闘を繰り広げたが、道三はその後、嫡男の一色義龍との戦いで敗死する。

そのため、信長は甲斐武田氏と単独で対立することになってしまった

信長、単独で信玄と戦うって、ピンチやん ( º言º) 。

ですよね!でも、この時は信玄も上杉謙信と対立していて、そっちを優先したいことから、(遠山一族の働き掛けもあってか)信長と信玄は和睦しています。
尚、この和睦の時期を弘治2年(1556)か、と平山優氏は推定しています。

ところが、信長が美濃へと攻め入ることが、東美濃へと勢力を拡大していた武田氏を刺激して、また関係が悪化したわけですね。
そこで、信長は武田氏と敵対する上杉謙信と結ぼうとしたわけですよ!ヽ(≧▽≦)ノ。

敵の敵を味方にしようってか? ( º言º) 。

そんな感じですかね!一方の武田信玄も、美濃の一色(斎藤)氏と繋がりを結ぶわけです。

そして、永禄8年3月、武田氏と織田氏は、美濃国神篦(こうの)でぶつかります。

織田勢はすぐに退却したらしいが、武田と織田の関係はにわかに緊張した。信長は信玄との衝突をさけるべく、武田への接近を試みる。
 
さらに近年指摘されている事情として、近江に亡命した足利義昭の存在がある。
義昭は永禄八年、京都奪回と室町幕府再興のため、諸大名に協力を呼び掛けたが、これにいち早く応じたのが信長であった。

足利義昭と信長は、上洛達成のために、美濃斎藤氏と甲斐武田氏との和睦を推進するのである。

一方の信玄も、関東や北信濃、飛騨における上杉との抗争激化のため、美濃・尾張への深入りを回避したかったと考えられる。

「武田三代」 著:平山優

ここで義昭が出てくるんか!各自の思惑があったんやね ( º言º) 。

ややこしいから大河ドラマとかでは簡略化されてそうですね!ヽ(≧▽≦)ノ。
ともあれ、信長は信玄に同盟締結を申し入れ、織田信長の養女を信玄の息子の勝頼に嫁がせることになります

こうして永禄8年11月に武田・織田同盟(甲尾同盟)が成立します。

そして、義昭の働き掛けで、永禄9年7月には織田・斎藤氏の和解(「尾濃無事」)が成立しますヽ(≧▽≦)ノ。
(ちなみに、永禄8年末までに、武田信玄と斎藤竜興は同盟をむすんでいるようです)

足利義昭、けっこう働いてるんやね ( º言º) 。

そりゃあ、上洛して室町幕府を再興させたいですからね!ヽ(≧▽≦)ノ。

で、美濃攻略と上洛の話やけど ( º言º) 。

長くなったので、『桶狭間から上洛までの9年間、いろいろありました編3』へ続きます!ヽ(≧▽≦)ノ。

え? ( º言º) 。


■参考・引用資料
 〇宿所の変遷からみる 信長と京都 著:河内 将芳
 〇信長の天下布武への道      著:谷口克広
 〇織田信長合戦全録          著:谷口克広
 〇信長研究の最前線        著:日本史史料研究会
 〇織田信長            著:柴裕之
 〇信長の城            著:千田嘉博
 〇信長と家臣団の城        著:中井均
 〇信長とは何か          著:小島 道裕
 〇武田三代            著:平山優
 〇信長公記―戦国覇者の一級史料    著:和田裕弘

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