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いだてん噺

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2024年6月の記事一覧

[いだてん噺]祖母(1112文字)

夏休みも終わり、絹枝は再び上京することになった。

まだ18歳の絹枝は、二階堂体操塾でのこれからの辛い日々を思うと、このまま実家にいたいと言う気持ちがどうしても強くなってしまうのだった。
祖母が願う立派な先生にならねばという気持ちとの間で揺れ動きながら、絹枝は実家を出たのだった。

岡山駅で友(二階堂体操塾の学生)2人と合流し、絹枝たち3名は列車の中があまりにも暑いため、つい色々な飲み物、食べ物を

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[いだてん噺]二階堂トクヨ(1122文字)

大正13年[1924年]4月。
父に連れられて絹枝は東京駅から京王線に乗り換えて松原駅に降り立った。
東京駅とは違って人もまばらな寂しい駅で、そこから徒歩で二階堂体操塾へと向かう。
体操の教師になるため、絹枝は1年間(二階堂体操塾は1年制の短期専門学校)を通して学ぶことになる。

「女子体育の母」と呼ばれた二階堂体操塾の塾長・二階堂トクヨと会った絹枝はその人格に魅了された。

トクヨは明るくさっぱ

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[いだてん噺]二階堂体操塾 進学(1040文字)

大正12年[1923年]11月4日に開催された、第2回岡山県女子体育大会に出場した人見絹枝の記録は次のように記録されている。

〇走り幅跳び 4m67
〇籃球投   21m89

ともに大会1位であった。
尚、籃球投はバスケットボール投のことである。
これが人見絹枝の陸上競技デビューとなる。

絹枝は自伝でこう記している。

走り幅跳び4m67の記録は非公認であるものの、当時の日本最高記録であった

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[いだてん噺]岡山県女子体育大会 参加(907文字)

人見絹枝の自伝では、大正10年[1921年]の県内庭球大会の次は、大正12年[1923年]の岡山県女子体育大会の記述に、筆が進んでいる。

大正11年[1922年]は、特に記すべきことがなかったということだろう。
尚、大正11年[1922年]、絹枝が岡山高等女学校3年生の時に詠んだ歌の中には、テニスに関する歌がある。

この時期、純粋にテニスを楽しんでいたことが伺える。

意外なことだが、絹枝は幼

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