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いだてん噺

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2024年5月の記事一覧

[いだてん噺]テニスの人見さん(699文字)

大正10年[1921年]。
大阪への遠征から1か月が過ぎ、県内庭球大会開催の日を絹枝は迎えた。
大会の会場は絹枝たち岡山岡山高等女学校であった。

出場チームは40組ほどで、人見絹枝・浮田芳子組は、健闘した関西女子庭球大会での好調さを維持していたのだろう、準決勝まで勝ち進んだ。

準決勝の相手は、宿敵ともいえる女子師範学校の大将組であった。
準決勝試合は接戦となりシーソーゲームの結果、人見絹枝・浮

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[いだてん噺]関西女子庭球大会(1328文字)

大正10年[1921年]。
時事新聞主催による「第4回関西女子庭球大会」に、岡山高等女学校は参加することになった。絹枝にとって初めての遠征試合である。

 当初、「娘が真っ黒になってラケットを振りまわすなど」と絹枝がテニスに打ち込むことに反対していた家族だったが、さすがに諦めたのか絹枝が大阪遠征を報告すると、反対を言わずに許してくれた。

岡山以外の旅行経験がない絹枝はじめ岡山高等女学校の6人の選

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[いだてん噺]本選手(905文字)

岡山高等女学校では、授業が終わる午後2時から1時間半ほど、課外運動時間が生徒に与えられていた。

テニスの練習に打ち込んだ甲斐あって2学期が終わる頃には、絹枝はクラスの中で一、二を争う実力者になっていた。

そして2年生になった5月、絹枝はテニス部の部長であった教師に教員室に呼び出された。

数学の点が悪かったことを叱られるのではと、絹枝は内心穏やかでなかった。

 「家の方では別に何も申しません

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[いだてん噺]アリス・ミリア夫人

近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタンは、女性のオリンピック参加を、好ましいことと思ってはいなかった。
それはオリンピック大会で女性の参加が認められた種目数にあらわれている。

アテネで開催された第1回大会は女性の参加は認められていない。
パリでの第2回大会では、テニスとゴルフのみ参加が認められた。
セントルイスでの第3回大会はアーチェリーのみ、ロンドンの第4回大会ではテニス・アーチェリ

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