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いだてん噺

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2024年4月の記事一覧

[いだてん噺]テニス大会

岡山高等女学校に入学した絹枝は、父の教えを守り勉学に勤しむ。
一番好きな科目は歴史と生物で、最も嫌いな科目は英語と数学だった。

一学期の成績について、絹枝は自著で書いている。

二学期に入り、県のテニス大会が近づくにつれ、岡山高等女学校の校庭は軟式テニスの練習でにぎわっていった。
当時、女学生の課外活動として軟式テニスがもっとも人気があり、岡山県内では、絹枝の通う岡山高等女学校と岡山女子師範学校

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[いだてん噺]大正九年 春

岡山高等女学校の入学許可書を受け取った際に、父の猪作氏は絹枝を茶の間の仏壇の前に呼び、こう言った。

絹枝は涙して父に勉学にはげむことを誓ったのだった。

絹枝の村から岡山高等女学校に入学したのは絹枝ただ一人で、隣の村には一学年上の人がいて、ふたりで毎日一里半(役6キロメートル)の道を、意気揚々と通ったと絹枝は自伝に書いている。

絹枝と同じ学級に、絹枝ほどではないが背の高い少女がいて、二人は友人

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[いだてん噺]オリンピック

絹枝が岡山高等女学校に入学した大正九年(1920年)、ベルギーのアントワープで第7回オリンピック大会が開催された。

日本がオリンピックに初めて参加したのは、明治四十五年(1912年)にスウェーデンのストックホルムで開催された第5回オリンピック大会からであった。
国際オリンピック委員会 会長クーベルタン男爵からの参加の誘いを受けてのことだ。

参加選手は短距離走・三島弥彦とマラソン・金栗四三のわず

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[いだてん噺]小学生の頃

人見絹枝の自著は上記の書き出しから始まる。

一農家と書かれているが、裕福な自作農家であった。(「二階堂を巣立った娘たち」より)

活発な少女であったようで、幼い頃は家の前の小川をせき止めて小魚を取って遊んでいた。小川ではフナ・ナマズなどが獲れた。
獲れた魚を持って絹枝が帰ると、父・猪作氏は叱ったそうだ。

当時を考えれば、父・猪作氏が先進的考え方をする人物であったことがうかがえる。

絹枝は活発

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