週末の亡霊
いつも通り特に何がしたいかも分からない週末を迎えた私は、行き先も決めないまま投げやりな気持ちで電車に乗りこみ、何も考えずに周囲の人の流れに任せて都心部の駅になだれ込んだ。そして改札を出て、繁華街へと続く道の雑踏の中、ふと我に返り足を止め、目線を上げてみる。
すると、私の重く迷いに満ちた足取りとは対照的に、周りの人々は皆どこかへ向かって明確な歩みを進めていた。彼らは、親しげな雰囲気で会話をするカップルであり、急ぎ足でどこかへ向かう若者であり、荷物を抱えた愛らしい親子であった。彼らは私とは違い、”目的”を持つものの目をしていた。”目的”は彼らに向かうべき方向を示し、彼らの歩みには確信があった。
人混みの真ん中で突然立ち止まった私は、その瞬間こそ後ろを歩いていた人たちに迷惑そうな目を向けられたが、次第に人の流れはきれいに私を避けたカタチに落ち着き、私はいつの間にかもう誰の邪魔にもならず、人々は私を透明にした。
それはまるで、清流に投げ込まれた石のようであった。最初にこそボチャンと音を上げ、清らかな流れを乱してみたものの、流れる水の勢いを堰き止めるほど大きな障害にもならないその石は、次の瞬間にはもう水流に柔らかく包まれる。そして、まるで何事も起きなかったかのように、また元の変わらない流れが再開されるが、正にあの自然に見られる光景に似ている。
私はしばらく立ち止まったままになってしまっていたが、その時ふと私は人々だけでなく、時間すらも私を置き去りにして流れ過ぎているような感覚を覚えた。
私はもう生きながらにして既に亡霊のようであった。もちろん私は確かにそこに存在していたが、もしその存在が他者からではなく、自分自身にだけにしか認識されることがなければ何が違うのであろうか。"私"が一方的に他を認識できて、他からは認識できない"私"は、一体何であるのか。存在は認識へ、そして認識は存在へと向い、そのお互いが差し伸べたベクトルが結ばれることにより”モノ”はこの世に”現象”するのだと思う。しかし、今の"私"の場合、その存在は主体の外の認識に出ることができず、ただただ自身の認識の中に飲み込まれていくようであった。
はるか前に、誰かがどこかで「ブラックホールは極めて重力の強い天体で、光すらもその外に出ることができない」と言っていたことが、何故かふと、何かの断片のように思い出された。しかし当然のことだが、私のやつれた思考は、結局その断片を何に対しても繋ぎ合わせることはしなかった。
私のぐったりとした重い眼差しは、行き交う人々に寄りかかるように、広く当てられていた。ただ、向かうべき未来の目的地をしっかりと見つめている彼らには、やはり私など見えているはずもなかった。そして、左側に目線やると、私の背後へと向かう長い人の連なりが見えた。そして今度は、そのまま元の位置に目線を戻す勢いのまま、おもむろに右側を向いてみると、私が途中まで向かおうと思っていた方向へはまた別の長い隊列が出来ていた。そして、どちらの方向にも目的がない私は前にも後ろにも進むことが出来ず、ただその場に立ち尽くしていることしかできないのであった。
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