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[生活]旅する理由 花巻、函館、二風谷へ その1
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2024年9月2日から一週間ほどの旅に出た。花巻、函館、二風谷への、一人旅である。母の介護がひと段落して、自分だけの時間を過ごす必要にかられていた。この夏は凄まじい猛暑で、しかもつい先日まで列島を縦断するかという台風に見舞われるという荒天続きであった。
以前から自分の心身をいたわる目的で、その2ヶ月ほど前からぼんやりとした計画をたて、思いついたのがこの旅程だった。
できるだけ「何も考えない」
まず、「何も考えない」ことがテーマであった。旅先へと身体ごと放り込む。その土地の匂い、感触をただ味わうこと。この旅は自主的な転地療養の意味もあったから、目的を特に設けず、疲れたら休むことを第一義とした。
同時に「休むレッスン」でもあった。在宅介護をしながら、ずっと働きっぱなしであったから。私はすっかり休み方を忘れてしまっていた。休むって、どうするんだっけ? 休むって、どういうこと? 「休みたい」とは思っても、それをどんなふうにしてすればよいか。それがわからなくなってしまっていたのである。
だから、もう考えもそこそこに、ひとまずはいまの場所(と環境)からいったん飛び出そう。そう決めた。同時に、今後も働いて、生きていくうえでの「休み方」のエッセンスのようなもの掴めれば、という思惑も働いた。
だが、旅立つ日が近づくにつれて、自分の貧乏性が顕になる。「何か得たい」とか、「体験したい」という欲求がふつふつと湧いてくる。結局、行程は年齢に比してかなりのハードトリップになってしまった……如何ともし難い。人生に余裕のない証拠である。
そして実のところ、この旅行の目的のもう一つのテーマは、本を読むことだった。無目的とは言いつつ、結果として、その無目的さを埋めるように、担保としての読書を目的としたのだった。このあたりが自分の仕事癖(思考癖)でもあるかもしれないけれども。
とはいえ本を読む行為は、実は「(余計なことを)考えない」ですむ。読書が旅に似ているというのは、何も詩人の長田弘(1939 - 2015)を引くまでもないことだ(長田弘『読むことは旅をすること』平凡社、2008年)。
大好きな本とともに旅に出たこと。それはよいことだと振り返っている、日常の、余計なことを考えないためには。
ということで、その土地土地での、旅先での同伴者、ないしは道標となるようなものを後だか先だかに3つ選んだ。宮沢賢治(1896- 1933)、佐藤泰志(1949-1990)、そしてアイヌの歴史である。
花巻・大沢温泉と宮沢賢治
大沢温泉は宿泊は初めてだが、実は2回目だ。帳場があり、歴史を感じさせる建屋のつくりはとても風情がある。部屋も実に簡素だった。
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大沢温泉には自炊部があって、長逗留する方も多いらしい。実際、湯治のためにここに通われている方も見かけたし、この炊事場で料理している家族らしき方もちらほらと見かけた。
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宮沢賢治は、この大沢温泉を父に連れられて来て以来、幾度となく訪れたことが知られている。実際、その写真が温泉施設内に飾られていることもあり、賢治がこの場所をとても気に入っていただろうことに思いを馳せる。
ちなみに賢治が使っていたのも自炊部で、「花巻農学校の教師時代には、生徒たちを引き連れて湯浴みに来てい」たとも。https://www.oosawaonsen.com/history/
賢治の記念館、童話村なども市内にあり、花巻という土地と宮沢賢治がいかに密に関係しているかがよくわかるのだ。
普段とは異なる夜の時間
温泉はもちろん素晴らしいのだが、湯治はしかし、基本的に風呂に入り、食事をする以外やることがない。自炊部で料理もできるけれど、私はお湯を沸かして、お茶を飲む程度だった。ただ、帳場からだいぶ離れにあった私の部屋からは露天風呂が近く、1日に5回くらいは浸かった。
この自炊部専用の宿に2泊したのだが、それにしても夜はとても静かで、その質感は、いつもとはだいぶ異なる。都会で暮らしているとわからない、〈夜の気配〉とでもいうのか、しん、と鎮まりかえる暗闇があるのだ。ああ旅に出てきた、という実感が湧いてきた。一人ぽっちの、楽しくも寂しくもあるような贅沢で、孤独な時間。
さて部屋の中でのんびりとしながら、寝る前に五たび露天混浴の湯に浸かって(中年らしき女性の方もいたが、おそらくは夫婦であろう方とご一緒されていた)、そろそろ寝支度でもするかというとき、部屋の壁の向こうから、微かに女性の歌が聞こえてきた。
なんだろうと私は思わず耳をそばだてていた。しばらく聴いていたのだけれど、それがあまりに素晴らしいので、壁に耳を当ててずっと聴いてしまった。驚くほど落ち着いた歌声と、節回しであった。ある何節かが終わったと感じられた後、私は思い切って部屋(といっても襖を開けるような和室だが)をでて、思わずその方に挨拶してしまった。聞かずにはおれなかったのである。私は、こんばんは。いまのは、なんの歌なのですか、と尋ねたのだった。
するとその方はとても驚いて、恥ずかしそうに、「聞こえてましたか、恥ずかしいわあ」とおっしゃっていた。歌われていたのはこの曲だった。
生保内節というこの民謡は秋田のものだそうで、他に似たようなものは見当たらない、とある。この女性は、歌うというより「謡っていた」というのが相応しいのだろう。なんでもお母様が民謡をずっとやっておられ、ご自身でも習っているとのことであった。
とても有名な民謡の一つだそうだが、私はもちろん知らなかった。しかしその声のなんともいえない節回しに、特別な感慨を覚えてしまった。花巻は特に大雪が降るというわけでもないそうだが、どうあれこの生保内節が、きちんと謡い継がれて、かつその瞬間に立ち会えたことに感激してしまった。
旅の醍醐味の一つには、こうした地域に根ざした、一人ひとりの歴史に触れることでもある。
一泊目は素晴らしい時間になった。東北地方の一部ではあるけれども、観光ではないかたちで、季節のありようや、その歴史にも感じ入ることができた夜のことを、いつまでも覚えていたい。
(その2に続きます)