景色の見えかた おじさん考 その2 本を読むおじさん
かれこれ20年以上も前のことだが、京王井の頭線永福町駅前のドトールで見かけた男性を思い出す。そのドトールは井の頭通りに面していて、道路の沿うように作られた細長いつくりだ。おじさんは、その通りを背にして、カウンターでいつも本を読んでいた。私は彼の、ちょうど真向かいの丸机に座ることが多かった。
このドトールにはお世話になった。私の数少ない正社員時代である。平日の朝はモーニングセットを食し、仕事へ出かけた。休日はどうしていたかといえば、まずは昼近くまで寝ていたと思う。独身でパートナーもおらず、だんだんと友人たちとは仕事の関係で遊ぶこともなくなりはじめるような、そんな時期だ。最低でもやることは、洗濯機を回すことぐらいだった。
何をするでもなく、予定も立てない。だから、休日にも午前中はドトールに居座っていたと思う。朝ごはんのような、昼ごはんのようなものを食し、コーヒーを飲んでからその日を始める、という生活になっていた。
当時の私は30代前半で、50歳を越えたいまよりもずっと本を読んでいて、何かをノートに殴り書きしたり、カルチャースクールに通ったりして、働きながら〈文学〉に浸っていた時期でもあった。しかしながら、何も長続きせず飽きっぽい性格の自分が、読むことは置いておくとしても、能動的に書くことをやめてしまうのにそれほど時間は掛からなかった。私は(いまなおそうであるが)途中でやめてしまうのが何より得意なのだ。笑えることでは全くないけれども。
さて、そのおじさんは、いつものように本を読んでいた。だいたいは文庫に目を落として、珈琲を飲みながらページを繰っていた。本を読むおじさんは、私が思うに2種類に大まかに分けられる。時代小説を読むおじさん。もう一つは、ノンフィクションを好むおじさんたちだ。前者は人情や男性の粋のようなヒューマニスティックなものを求め、後者は現在進行形の社会について、何かを知っておこうとする知識を得ようとする方々、という仮説を私は持っているのだが、どうだろう。
ドトールのおじさんは、後者であったと思う。毎回、何を読んでいるかを探っていたわけではないから、はっきりとはわからない。ただ、わたしはあるとき、そのおじさんが涙を堪えるようにして上を向いたのを見てしまった。わたしはちょっと驚いた。それからおじさんは、声を出さずに、下を向いて、しばらく読むのを中断しているようだった。
そのおじさんが読んでいたものが気になって、おじさんに気づかれないように(コップの水を注ぎ足しに行くようにして)、私はちょっとだけ立ち上がって覗き込んでみた。おじさんが読んでいたのは、カントの『永遠平和のために』の文庫であった。
私は二度驚いた。その本は当時は未読であったけれども、よりによってカントで、しかも『永遠平和のために』である。ただ一つの事実として、その本を読んでおじさんは確かに涙を浮かべていたのだった。なぜ泣いていたのか、それが内容についておじさんの心に突き刺さったのか、はたまた読んでいて、おじさんにとって何か別の大切なことを思い出して涙したのかは、わからない。
私はときどき、そのおじさんのことを思い出す。そして歳を重ねていくごとに、ゆっくりと、しかし確実に、そのおじさんの気持ちが以前よりわかるような気がしてくるのだった。あの涙は、『永遠平和のために』によるものでもあったかもしれないし、そうでないかもしれない。そして、だいたいわかってきたのは、自身の生が限りあるものだとわかりはじめる頃、要は人生の折り返しをとうに過ぎた頃に、どうしようもない感情が溢れてくることがある、ということなのだった。
もう20年以上も前の話だ。あのおじさんが今どこでどうしているかなど知る由もない。わたしはそこで気づくのだ。ああすでに自分もまた、あのおじさんと同じだ、ということを。
この原稿を書くときに読んでいたり(読み直したり)した本など
◎最相葉月『中井久夫 人と仕事』(みすず書房、2023)
◎李静和『つぶやきの政治思想』(岩波現代文庫、2020)