時間を投下するしか能のない教員は要らない

公立学校の教員の給与について、「給特法」という法律によって残業時間の平均およそ8時間分に相当する月給の4%を上乗せする代わりに残業代が支払われないとされている。

しかし、この残業時間の平均値は50年前のものであり、現在の教員の残業時間の平均とは大きく乖離している。
昨年度、日本教職員組合(日教組)が調査した結果では、公立学校の平均残業時間は96時間に達しているとある。

教員の給与のあり方や働き方改革を議論してきた中教審の特別部会が先日示した素案では、優れた人材を確保するために月給の上乗せ分を現在の4%から少なくとも10%以上にする必要があるとしている。

より良い人材を確保するために、待遇を改善していくことは良いことだが、今回の給特法の見直しはあくまで人材戦略であって教員の働き方改革にはつながるものではないと考える。
なぜなら、俗に言う「定額働かせ放題」の仕組みはそのままだからだ。
むしろその定額が増えた分、今まで以上に働かなければならないという意識や国民からの圧力が高まる可能性すらある。

しかし、この風潮が追い風になる教員もいる。
それが、『時間を投下するしか能のない教員』だ。

この手の教員は「業務に多くの時間を投下すること」=「努力」と考えている。
さらに、「努力する者」=「誠実」であるから、まさか自分が全体に対して悪いことをしているという意識はないし、周りの人間もこの一連の考え方を否定するのは非常に困難である。

しかし、よく考えて欲しい。

決められた時間の中で、どうすればパフォーマンスを最大にできるかを工夫し、多くのタスクの優先順位を考え取捨選択しながら業務を遂行し結果を出している人間と、タスクを端からこなし、とにかく時間だけを投下して結果を出す人間は、どちらが努力しているだろうか?どちらが誠実だろうか?

共に働く人間が、このような働き方を正しく評価しなければ、この業種にはびこる『定額働かせ放題』という呪いを解くことはできない。

教員らは時間を投下して結果を出そうとすることが1番安易な方法であるということを共通認識とし、それを「努力」として自己評価または、他を評価することを許してはいけない。

投下する時間が一定だからこそ、そこには能力で勝負する土俵が現れ、そこで勝負しようという向上心の高い者が日々自分の能力を高めようとする。
これが本来の「努力」ではないだろうか。

おそらくこのままの方向性で給特法が改められても、教員の働き方は改善することはないだろう。そして、教員の職としての見られ方も変わらない。
だから、人材戦略としても失敗に終わるだろう。

教員が正しく努力し、それが正しく評価される世の中にならなければ、まだまだこの業界は暗いトンネルを走り続けることになるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?