「得られるもの」を主張する教員は要らない

教員不足が慢性化して久しい昨今、教員の成り手不足や離職者の増加も非常に深刻な問題となっている。

その原因は一言で言えば、『教員の過酷な労働環境』ということであろう。

そして、その過酷な労働環境は常に教員ら自身によって作り出されている。

しかし、こんなことを言うと教員らは
「いや、最近の子どもは、、、」
「いやいや、保護者が、、、」
「いやいやいや、管理職が、教育委員会が、、、」
と必死で大変さをアピールする。

もちろん大変なのは間違いないし、その点は全く否定するつもりはないが、
ここで述べたいのは、労働環境に最も影響を与えているのは、そこで働く者達であるということだ。

学校の労働環境について無関心かつ当事者意識の低い教員が多すぎる。

このような教員が、特に後輩教員に向けて発せられる言葉の一つに
「大変だけど得られるものは大きい」というのがある。

教員でなくとも、言われたことのある者は多いだろう。
しかし、今の学校現場においてこの言葉を発する者は極めて危険だ。

おそらく、この言葉に動かされ苦しめられてきた教員は少なくないであろう。

真面目に生きる人間の代表のように思われている教員の多くは、
『大変なことから逃げてはいけない』
『サボったり、怠けたりしてはいけない』
『苦しくても頑張らないといけない』
と、自分を追い込んでしまう。

『大変だけど得られるものは大きい」という者は、『得られるもの』を主張するが、具体的に何を得られるかは説明してくれない。
そして、その『大変さ』によって『失われるもの』については一切説明はしない。
『失われるもの』の存在すら認知していないのだろう。

大抵、この場合の得られるものは、過酷さへの耐性ぐらいなものだ。
しかし、このような感覚の教員が多いせいで、今の教員という仕事を続けるには、この『過酷さ耐性』を身に付けるかどうかが重要になってしまっている。

そして『過酷さ耐性』を得ることと引き換えに失うものは大きい。

持続可能で公私のバランスのとれた働き方を失い、充実したプライベートも失われる。
なにより、『過酷さ耐性』の無い者への寛容さが失われる。

この不寛容さが、学校の労働環境に負のループを生み出している根源なのである。

ハイリスクに対してリターンが大きいのは当たり前のことであるが、危険から目をそらし、リターンだけを主張して、大きなリスクを取らせるのは、到底許容できるものではない。

『大変だけど得られるものは大きい』

この言葉を発したことがある者は、今一度、周囲の人間の労働環境に目を向けるべきであろう。

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