導く教員は要らない

教員が子どもたちに働きかけることを『指導』と言うが、
私はこの言葉が、これからの教育にはそぐわないと感じる。

『指導』の言葉の意味を調べると、
「ある目的にむかって、教え導くこと」とある。
つまり指導とは導くこと、手引きすることである。

子どもを指導するということは、子供の手を引き、目的に向かって進ませるというイメージが強い。
しかも、この目的というのも、大人にとって良いとされる目的である。

私は、この『指導』という感覚が、教員をより傲慢にし、子どもたちの思考を停止させる一因となっていると考える。

傲慢なだけならまだしも、多くの教員は、導く先にある目的そのものには極めて無責任である。
教員達は子どもに対して「目的に向かってしっかり進め」と指導はするが、教員自ら判断し「目的を設定する」ことはしない。
しないというよりか、できないのだ。

自分で目標設定している思っている教員もいるが、
それは学歴や地位などの社会的評価や、学校の方針や教育委員会の方針に準じているだけだ。
だから、導いた先が地獄であっても関係ない。
終いには教員は保護者に、保護者は教員に目的設定を委ね合っているということなどもある。

そのため、現在行われている子どもへの『指導』は形だけで中身のないものばかりになってしまっているのだ。

「中身が空っぽでもどうせ分からないだろう」「子どもは正しい目的設定ができないだろう」と、子どもたちをあなどり、無責任に形だけの指導を行っているというのが、現代の日本の教育だ。

もうこのように、誰かが決めた何の意味があるのかよく分からない目的に子どもたちを導くのは絶対にやめた方が良い。

なぜ毎日学校に行くのか
なぜ言葉や計算を学ぶのか
なぜルールが必要なのか
なぜ友達の仲良く気持ちよく生活するのか
なぜ健康が大切なのか

これからは、子どもたち一人ひとりが自ら目的を設定し
何を学び、そして何を学ばないのかを決めるのが当たり前になる。
そして、誰と活動し、誰に教えを乞うかも自分自身で考え、判断するべきだ。

教員らはその礎となる子どもたちの「好奇心」や「探究心」を守り、その行末を見守ることが仕事となるはずだ。
子どもとの関わりの中で、子どもの価値観に刻み込まれるような衝撃を与えられる教員が、良い教員とされるだろう。
そうなれば、教員という仕事が、人の決断に影響を与え、人の心を動かすことができる素晴らしい仕事となる。

もう子どもの手を引くのやめ、子どもを信じて欲しい。
子どもたちの判断に間違えなどない、とまでは言えないが、
失敗させないための形骸化した『指導』が学校からなくなることを祈る。

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