主体性についてわかってない教員は要らない
昨今の学校教育にとって、子どもたちの学びに対する主体性を高めることは、最重要項目の一つであることは間違いない。
教員たちは、子どもの主体性を高めるために毎日の授業に工夫を凝らし、教材づくりや板書計画に余念がない。
では、主体性や主体的とはどのような意味だろうか。、
それは、『自分の意見や思考を基に、自分で決定し、自分で行動に移す様子や態度』『自己の意識や判断により、自発的に物事を進める状況』などと説明されている。
しかし、この意味の捉え方の違いが、今の教育現場に大きな混乱を生んでいる。
まず第一の混乱は、主体性を『やる気』や『意欲』と勘違いしてしまったことだ。
結論から言うと、主体性とやる気や意欲は全く関係がない。
その理由は『主体的』の対義語を考えれば容易に理解できるはずだ。
主体的の反対は受動的だ。
では、受動的な人間はみんなやる気がないのだろうか?
そんなことはない。人から言われたことを一生懸命頑張る者もいる。
しかし、この勘違いにより、教員らは「子どもたちがやる気になるようなことをさせればいいのだ」と結論づける者が増えてしまった。
結果、子どもたちは楽しいことや面白いことを与えられるのを待つだけの厚かましい集団になってしまうことが多くなってしまった。
そして、第二の混乱は、主体性を高める指導を『子どものやりたいことをやらせてあげること』と勘違いしてしまったことだ。
言うまでもないが、感情のなすがままに行動することは只の『わがまま』である。
「あれがしたい、これがしたい」という気持ちをただ尊重することは大間違いであるし、主体性を高めることには一切つながらない。
『わがまま=主体的』であるなら、子どもはみんな多かれ少なかれ主体的だろう。
このような考えが広まった結果、主体的な行動に最も重要である『思考と理性的な判断』が全く育たず、自分の感情を制御できない子どもが増えてしまった。、
この二つの混乱を収めるには、子どもの主体性を正しく見取ることが重要だ。
子どもは良くこんな質問をしてくる。
「先生、次は何したらいいですか?」
この子はやる気があって自主的に動いてはいるが、主体性は低い。
主体性の高い子どもであれば
「次はこうしようと思うのですが、いいですか?」
と聞いてくるばずだ。
主体的な子どもは質問のレベルが違う。
教員らは子どもの質問のレベルが高まるように指導すればよいのである。
高い意欲や自主性のもう一段上に主体的な行動があるのだ。