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奇祭—「埼玉政財界人チャリティ歌謡祭」という「祭り」

本題に入る前に、まずは「祭り」について予備知識を得ておこうじゃあないか。

例えば大相撲も本来は神道としての奉納の祭りであり、神事でもあるが、宗教への関心の薄れなどから、大相撲のように「神事や祭礼としての祭りである」ことが忘れられたり、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかなイベントについて「祭」と呼ばれることもある。規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともある。—Wikipediaより

…とある様に、まあ、タイトルの埼玉政財界人チャリティ歌謡祭はおわかりの通り「神事や祭礼としての祭り」では無い。「祭祀と関係なく行われる賑やかなイベント」としてのお祭りだ。

しかしながら、Wikipediaにはこうも記載されている。

「まつり」は、日常生活のサイクルと深く結びつき、民俗学でいう「ハレとケ」のサイクルのなかの「ハレ(非日常性)」の空間・時間を象徴するものとなった。—Wikipediaより

埼玉政財界人チャリティ歌謡祭は—間違いなく「ハレ」の場であった。

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さて、ようやっとここから「埼玉政財界人チャリティ歌謡祭とは何ぞ」という話をしていこう。

お正月に行われる埼玉の「奇祭」—とネットで語られている、埼玉の政財界のお偉いさんがたがテレビ埼玉の電波を使って行うカラオケ大会…というのが、大まかな説明に値すると思う。

このお祭り、埼玉企業の社長さんが自社社員を応援だったりコーラスだったりに投入し、そのさまが…リンク先参照…だったりすることで話題を呼び、Twitterのトレンドにも上がったことがある、埼玉ローカル局(テレビ埼玉ことテレ玉)を代表する人気番組だ。

その「奇祭」が、昨年のコロナ禍での中止を経て一年ぶりに復活をしたというのが、今年の元旦のことだったのだ。

私はこの奇祭について、どうしてか知っていた。たぶんTwitterで噂を耳にしたのだと思う。でも結局、マジで視聴することとなったのはそれこそこの元旦、いろいろと事情があって様々な形で例年とは違うスタイルで催された、この記念すべき30回目の奇祭のタイミングで、であった。

さてさて、この記念すべき第30回目の奇祭がいかがなものであったかは、下記のまとめを読んで察していただきたい。

これは、マジに奇祭という呼称の相応しい「祭り」であった。

ガス会社の社長がノリノリで矢沢永吉に扮したと思えば、「女帝」と呼ばれるマダム社長がカンツォーネを披露する—そして埼玉県知事が、世界的にも生息地のオーストラリア以外では観ることの難しい「世界一しあわせな動物」クオッカのTシャツを身に纏い、(わざわざ吉本ver.の)「明日があるさ」を歌い上げる。

否、この数行で面白さを伝えることはまず不可能なのだ。端折った部分があまりにも多すぎる。ヤバい、これはヤバい奇祭だ。

「何故、他人の(…しかもお偉いさんの趣味である要素の強い)カラオケがそんなにも面白いのか」、こればっかりは実際に見てもらわねばわかるまい、そう思う。

ガキ使の無い大晦日を過ごし、翌日にまさかここまで大笑いさせてもらえるとは—本当に、本当に予想だにしていなかった。

中にはわざわざ埼玉県内に泊まってまでして、この奇祭の視聴を企む猛者もいらっしゃるらしいが、それはもはや何たる贅沢というか、猛者たちのことがどうにもこうにも、最高レベルに人生の楽しみ方をご存じなハイレベルプレイヤーにすら感じられる。

とにかく私はこの元旦ほど、自らの住まいである埼玉県のカオスさを楽しんだことは無かった。「翔んで埼玉」フィーバーすらも軽く超えた気がした。だってあっちは千葉県の力添えもあっての、協力体制で生まれた混沌であろう。ところがどっこい埼玉政財界人チャリティ歌謡祭は、紛れもなき「埼玉県の祭り」なのだから。

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お酒も入ってすっかり高揚しきった私の脳裏にふと、あの大人気番組のことが浮かぶ。それは「水曜どうでしょう」だ。

どうでしょうが流行り始めた当時、私はまだ小学校高学年とか中学に上がった頃とか、おおかたそんな塩梅だったと思う。気づいたら、二つ年上の従姉がどこからかどうでしょうについて情報を得、すっかりハマって、札幌に行ってonちゃんのストラップを買ってきてくれた。

クラスの男子がぽつぽつと、水曜どうでしょうが云々とか話し始めていたのにも気づいた。SNSなんてものはまだ巷に流行っていない、まだまだ口コミがモノを言わせていた時代だ。

自分たちの暮らす、冬には雪ばっかり降るわ寒いわ吹雪くわ時々電車も止まるわ、そんなクソ面倒くさい地がしだいに「水曜どうでしょうを産んだ土地」にクラスチェンジしていくさまは、北の大地に住まう人々の胸を少なからず高鳴らせたに違いない。私もやっぱりそうだった。「北海道ってすごい面白い土地なんじゃないか?」という淡い期待みたいなものが、ほのかに胸を染め上げたのだ。

以前も似たようなことは書いたのだけれど、

改めて今回、だ。

今回、件の奇祭に盛り上がるタイムラインを眺めていると、それは水曜どうでしょうというローカル番組があすこまで盛り上がっていった頃の、あのみなぎるわ滾るわ兎角すさまじいパワーに近いものを感じさせる気がした。

それが、北海道出身・埼玉県在住の私の心を、どれだけ歓喜に震え上がらせたことか—きっと、お察しいただけるはずだ。

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今の世はさんざんっぱら「テレビがつまんねえ」と言われる。

でもこれこないだどこかのまとめサイトか何かでも同じ趣旨のことを仰っている方がいたけれど、こうして「つまんなくない(むしろ面白い)番組」が事実としてあるのだから、一緒くたに「テレビがつまんねえ、テレビはオワコン」と言い切ってしまうのは、ちょっと尚早すぎるのではないだろうか。

楽しいのだ、実際、「実況」という形でハッシュタグなんかを追いながら皆の感想を眺めつつ奇祭を鑑賞するのは。そしてこの奇祭はテレビという媒体だからこそ皆で共有できるのである。

埼玉の政財界人によるチャリティ—安くはない、むしろかなり高額であろう出演料(という名目の寄付)を捻出できる立場の人たちが、CM効果も期待しつつ、(中には「(昨年は)中止になって逃げれたと思ったんですけど」という意見もあるとはいえ)全身全霊でショーを行う—長くなっちゃったけれど、そうしてその善意のショータイムを、ネットが使えない世代も含めた「みんな」がお茶の間で楽しめる、まさに「お正月番組」という形を取った「祭り」だから素晴らしいのだと思う。

そう、これは埼玉県民にとってマジもんの「祭り」なのだ。

都市が出現すると、都市民の統合の儀礼としての機能を強め、宗教的意味は建前となり、山車の曳行や芸能の披露といった娯楽性が追求されるようになった。「まつり」を行う者と、「まつり」を鑑賞する者の分化が生じた—Wikipediaより

上記の文章に当てはめるならば、埼玉政財界人チャリティ歌謡祭の出演者は「まつり」を行う者、テレ玉の視聴者が「まつり」を鑑賞する者であろう。

今日では世俗化も進んでいるが、今なお祭の時は都市化によって人間関係の疎遠になった地域住民の心を一体化する作用がある。変わりない日常の中に非日常の空間を演出することによって、人々は意味を実感する営みを続けてきたのである。—Wikipediaより

埼玉政財界人チャリティ歌謡祭は、その時間を楽しむ埼玉県民の心をひとつにする「祭り」であるのだと—さすがにもう、おわかりになられたことであろう?

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ちなみにこの奇祭、来る9日に再放送があるそうなので、どうしてもご覧になりたいという方はどうにかチェックしてくださいまし。

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参考資料:Wikipedia「祭」より

見出し画像:以前に私が撮った川越まつりでの一枚

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桃胡雪(みるくゆき)
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