祭り囃子と、縁結びと。
「俺、お囃子やってたんだ。」
そう言われた時、私は、ふうん、とあまり話を深く広げなかった気がする。
彼は「お囃子」というワードとは程遠い見た目をしていた。髪の毛のブリーチした部分を真っ赤に染め、シド・ヴィシャスにでも憧れている人の着ていそうな、ダメージ加工のなされた洋服を着ていた。でもパンクスでは無く実はヘヴィメタルを愛していて、背負ったギターはFlying V。重そうなそのギターケースには、当時流行っていた病みかわいい系のキャラクターのマスコットがいくつも付いていた。
好きなバンドが同じことから、SNSを通して知り合った彼だった。関東三大祭と呼ばれる川越まつりのある、埼玉県の川越市に程近い場所に彼は暮らしていた。私は南武線に乗って、しずかな都下の街から彼に会いに行った。中間地点の立川で遊ぶことが多く、そのたび多摩モノレールの高架を見上げては「都会だなあ、」と感じていた。
付き合うことに決まったのは、会って二度目の日にだった。最初に遊んでからもうずっと、毎日のように電話する仲になっていた。同じ音楽を好きで、ファッションの好みも同じ方向にある。毎日電話していても、それが苦痛にはならない。これで付き合わなかったら、「都合のいい関係」になってしまいそうだ。
そんな彼の口から零れた「お囃子」という言葉。お囃子、って、どんなのだっけ。とっさに笙の音色が脳内に響いたけれど、あれは雅楽じゃあなかったろうか。琴だっけ?太鼓だっけ?…笛?
彼は、地元の「囃子連」で太鼓を叩いていたという。「山車」に乗って、お祭りでお囃子を演じるのだという。…はやしれん?だし?、私の知らない言葉が彼の口からどんどん溢れていく。山車って、お神輿みたいなものだろうか。あれに人が「乗る」…?
彼と私はやがて一緒にバンド活動を始めたが、スタジオに入ってじゃんじゃんひずんだ音をギターで奏でる彼を見ていても、その姿にお囃子の「和」っぽさはまったく感じられない。せめて太鼓ではなく琵琶と言われれば、ギターに似ているから少しは想像がついたかも知れない。私は「大泉洋がヴィジュアル系バンドに居た」と言われているも同然の想像のつかなさを抱きつつ、そんな彼の姿を見つめた。
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私の地元は北海道の片隅、小樽のそばの小さな町だった。信仰の跡は遺っていれども、それは神社祭云々よりも更に昔の、洞窟の岩壁に古代の絵が遺されているとかそういう時代のものであって、だからか地元の神社のお祭りというのも正直、そこまで大々的なものでも無かったように感じている。
神社祭の最初の日を母は「よみや」と呼んでいた。たぶん「夜宮」のことだったのだと思う。よみやの日の朝、あの小さな町を、猿田彦という神様(に扮した人)を先頭にした行列が歩く。
(画像は川越まつりでお見かけした猿田彦さま)
私は猿田彦さまの着けた天狗面を見、彼が「天狗さん」だと信じて疑わなかった。小樽には天狗山という場所もあり、天狗はきっと、辺りに暮らす子ども達にとっては、他のどの人外の存在よりもまず先に名前のあがる、そんな特別なものであったはずだ。
子ども達は酒樽で作った小さなお神輿を囲み、自分の暮らす町内会の地区を練り歩く。確かリアカーに乗せて運んだので、担ぎ手はいなかった気がする。酒樽の上には金色の風見鶏みたいな鳳凰が乗っていて、そこから笠鉾みたいに紙の花が枝垂れているのだ。
(画像は秩父まつり会館で撮影した笠鉾)
その花と同じものが、お祭りの日にはあちこちの家の軒先を飾っている。あれはお祭りへの寄付への返礼品として配られているもので、玄関に飾るというその風習は「この家はお祭りに寄付という形で協力しているよ」というしるしになっていた。
開拓地である北海道で大きくなっていった「お祭り」は、よさこいソーランや雪祭りだ。それでも、私にとって「お祭り」とは、あんなに小さな規模だったけれど、地元の神社祭の光景をまず思い浮かべるのだ。「天狗さん」を見られると嬉しかったこと。あの紙の花の躑躅色を好きだったこと。そんなきらきらした思い出のかけらが、今でも私のなかに、ちゃあんと遺っているのだ。
でもお囃子の記憶は無い。囃子連なんてものは、果たしてうちの地元にあったろうか。そうだ、うちの地元ではお祭りといえば圧倒的に、太鼓の達人みたいな大きな和太鼓による演奏だったのだ。お囃子はせいぜい、お祭り時期のスーパーで流れる、今にも伸びそうなカセットテープが奏でるつくりもので聴く程度。確か、そんな感じであったはずだ。
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さて、彼と付き合って、もうすぐ一年が経とうとしていた、秋の日のことだ。
「一緒に、川越まつりに行こう!」
そう提案した彼のまなこは、ヒーローショーを前にした少年みたいに輝いていた。
思えば上京してから、大きなお祭りになんか行ったことが無かった。札幌に居た頃、北海道神宮の例大祭に行ったのが、私の記憶の中での最後の「大きなお祭り」だったように思う。
南武線の途中で乗換えをし、どうにか朝霞までたどり着き、そこから東上線に乗った。北朝霞と朝霞台の駅の近さに驚いたのを覚えている。登戸と向ヶ丘遊園の駅間よりずっと近いではないか。
そうして遠路はるばる辿り着いた川越で私は、生まれて初めて山車というものを間近に見たのだった。
―車輪のついたお神輿?…でも、舞台みたいになっていて、そこに人が乗っている。獅子舞とか、狐面とか、踊っている人もいる。ああ、太鼓って、あんな風に設置されているのか。ピッコロみたいな笛の音も、とっても綺麗だ。
そんな感想を抱きながら、じっくりと山車を見つめる私をよそに、彼はとても興奮していた。気づいたらあっという間に山車を追いかけている彼に、私は追いつくので必死になった。けれども、ヘヴィメタルやお洋服のこと以外で、こんなにも彼が「好き」な気持ちを大あらわにしている様子を、私は初めて見た気がした。こんなに雅で、こんなにうつくしい日本の文化に対し、ダメージ加工でずたぼろになった服を着、ヴィジュアル系バンドのメンバーみたいな髪型をした、パッと見場違いな青年が、わくわくを抑えきれずに大興奮しているのだ。
そもそもこの青年こそ、自身も地元の山車に乗ってお囃子を演じていたというのだから、ほんとうに人というのは見かけによらない。彼は、それを誰よりも体現していた。
川越の山車の上からは、山車人形と呼ばれる大きな人形が出てくる仕組みになっている。
「俺の乗っていた地元の山車はね、スサノオノミコトの山車だったんだ。その山車もあんな風に、上からスサノオの人形が出てくるようになってた。凄く古くて、なんだかいかつい顔した人形だったよ。」
「へえ、スサノオかあ。」
そういえば、川越の氷川神社はスサノオノミコトが主祭神だったな―その頃神社について調べるのが趣味だった私はぼんやりと、そんなことを思い出していた。ちなみに川越まつりとは、川越氷川神社の祭礼から発展したものなのだそうだ。
「俺ね、囃子連辞めてからだいぶ経つけど、まだお囃子の太鼓、叩けるよ。ぜんぶ覚えてるもん。」
彼が、まるで山車の上の太鼓の演者に対抗するみたいに呟く。やりたくなったんだろうな、また―私はそんな彼を微笑ましく思った。二十歳を過ぎて、囃子連を離れて、お囃子とも縁遠くなって。けれども彼のなかにはずっと、その音楽が遺されていた。随分かたちは違うけれど、ギターを始めてメタルのバンドマンになったのだって、元はと言えば、幼少期からやり続けてきたお囃子という存在があったからかも知れない。彼にとってライブハウスのステージは、さながら山車の如くということか。
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そんな二人の様子を、氷川神社の神様はきっと、優しく見守ってくださっていたのだろう。それから数年後の秋、二人は入籍することとなる。そして二人は毎年かならず、川越まつりに足を運んでいるのだから。
最後に、私が実際に体験したエピソードと、氷川神社が縁結びで有名であることを書き記して、筆を擱くことにしよう。
参考資料・さいたまつり
※記事内の川越まつりの写真は、私が今年撮影したものです。
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