私は追う、木曾義高を。
小学校の高学年くらいから中学の三年間くらいまで、私は、ティーンズハートとかコバルト文庫といった、今で言う少女向けのライトノベル的な作品にハマっていた。
私の地元の図書館は随分とお洒落な建物で、私はそこが好きだった。うんと通い詰めて、その図書館にあったティーンズハートやコバルト文庫をめいっぱい読んだ。今思えばその辺りの蔵書がたくさんあった図書館だった。
そんな本たちの中に、この作品があった。
この作品によって私は、大姫と、木曾義高のことを知った。私がいまZIPANGメタルなんていう音楽を演っているのは、この二人について知り、心を捉えられたまま、大人になったからかも知れないとすら思う。
源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者(志水冠者)と号す。木曾義高とも。源義仲の嫡男。(中略) 寿永2年(1183年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。—Wikipediaより
ざっくり説明しよう。義高は、かの源頼朝の長女である大姫の許嫁になった(まあ人質なんだけども)。しかしながら、そんな大人の都合で結ばれた二人ではあったものの、当人たちはとても仲睦まじく過ごしていた。幼いなりに愛し合っていたのだと思う。
しかし、義高の父の義仲がいろいろとあって征伐されてしまい、父がそうなってしまった以上、息子の義高もまた、殺されることが決まってしまう。
そのことを知った大姫はどうにか義高を逃がそうとしたものの結局、義高は殺されてしまい、その死を悲しんだ大姫もまた、若くして亡くなってしまう―そんな二人の悲恋を綴った上記の作品「夢鏡(ゆめのすがたみ)―義高と大姫のものがたり」は、十二、三歳の少女にどっぷりと感情移入させてしまう威力を持っていた。私はまるで自分に大姫の一部が乗り移ったみたいに、義高のことを想った。何故、こんなに愛し合った二人が引き裂かれたのだろうと、ひたすら悲しかった。
さて、大人になった私は、いま自分の住んでいる場所からさほど離れていない所に、義高の終焉の地とされる清水八幡宮があることを知った。
(注・北条)政子は義高の供養を行うこととした。首を取られた義高の遺体がその最期を憐れんだ里人の手によって討伐地の入間河原に葬られていたことを受け、その年の5月、その墓の上に義高を祀る社を建てたのである。これには畠山重忠らの口添えもあったという。そして当社は政子の手厚い保護を受けることになり、政子自身もここに参拝したとの伝が残る。—Wikipediaより
義高の誅殺を命じた頼朝に反し、妻の政子は義高を逃がすことにも協力したそう。そしてその死を悼み、この清水八幡宮を創ってくれたんだとか。私はもうそのことだけで、北条政子が大好きだ。
ところで、まさか私は、自分が義高の終焉の地をこの目で見ることができるようになるとは、まったく思っていなかった。車を停める場所がわからないので未だに清水八幡宮に参拝できずにいるけれど、前を通り過ぎたことは何度もある。
北海道の片田舎で暮らしていた時は、入間河原なんてどこにあるのかまったくわからなかったし、生涯自分が訪れることの無い場所なのだろうと勝手に決め込んでいた。それくらい内地は遠かったし、自分の人生もせいぜい、親が望んだレールをとんとんと渡って暮らしていくのだろうと、そんな風に考えていたところがある。
けれども実際は、何がどうしてかこうして、義高の最期の場所まで巡り着いてしまった。偶然なのだろうけれど、どこか必然を思わせる。だって、義高なのだ。他の誰でも無い、義高なのだもの。
今年の三月には、義高の父・義仲の産湯とされる清水が現存する、鎌形八幡神社にも行ってきた。
考えてみれば、義仲のそんな逸話の遺る神社にもこうしてサクっと行けてしまう場所に住めているのだ。私はいったい、木曾親子とどんな縁を持って生まれてきたのやら。
ついでにこんなことも発覚した。
これについては諸説あると思うし、実際のところはよくわからないのだけれど、苗字についてなんとなく色々調べていたら一応、それっぽいことが書いてあるサイトを見つけたので、「もしかしたら」という一寸の希望を抱かせてもらっている。
でもマジでそうだったら凄いよね。
人生というのは、生まれてきた時にもう既に全部決まっているものなんじゃあないかと、たまに思うことがある。
自分が「不幸」だとレッテルを貼っているだけで、本当は物事はすべて決められている「ニュートラル」で、受け取りようによっては「不幸」すらも「幸福」なのかも知れないと、ぼんやりと思う。ただし人の人生に対してそう言ってのける自信は無いので、あくまで私の人生に関して、だ。
でなければ何故私は、こんなにも義高に惹かれ、義高の終焉の地に呼ばれたかの様に、生まれ故郷からこんなに遠く離れた地まで引っ越してきたというのだろう。結婚生活だって別に、私が一人で暮らしていた東京の稲城市に、夫を呼んで暮らすのだってアリだったはずなのだ。なのに私はわざわざ埼玉へ来た。ちなみに鎌形八幡神社のある嵐山町は、夫が昔働いていた町でもある。
私はこれからも、義高の姿を追うように生きていくのだろう。自分の前世が大姫であるとか、そんな大それたことは思わないけれど、木曾親子、特に義高についてはどうしても、私の人生を見守るかの様に、時々どこかしらに現れる、そういう存在だ。
いつか自分の人生が終わった時、義高に逢える日が来るのだろうか。その時には義高に訊いてみたい。あなたは本当は、私にとって「誰」であったのかと。答えがあるかはわからないけれど、それでも私はきっと一生、義高を探して、見つけて、それがきっと、私を導くのだ、大切などこかへ。
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