【43冊目】書を捨てよ、町へ出よう / 寺山修司
インターバルです。
本日17時-24時半です。
ゴールデンウィークも中休みの平日です。それでも街はうわついた雰囲気が漂っている気がしますね。うわついた雰囲気に当てられて街へ出ていくのもいいですが、どこへ行ってもゴールデンウィークなんていうのは混んでいるものですから。出かけるのもやめて家でゆっくり本を読むなんていうのもいいですね。そう。つまりは。ウィグタウン読書部です。
というわけで、月初のお決まりウィグタウン読書部。4月の課題図書は寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』です。実際に読んだことはなくとも、タイトルだけは知っているという方も多いのではないかと思いますがね。まったくもって私もその中の一人で、本書を読んだことは未だ一度もなかった。学生時代より、アングラ・サブカルの世界にどっぷり浸かっていた私にとって「寺山はいつか読まなくてはな」という意識こそあれ、どうにも先延ばしになり、そうこうしているうちに、周りの感じは「サブカルのくせに寺山も読んでいないの?」から「寺山の文脈を理解している前提で話すけど」みたいなムードになってきて、例えば毛皮のマリーズを聴いているだけなのに寺山修司の話をされる、みたいな感じになってきて、私はもう、寺山を読んでいないとは言えなくなり、しまいには「寺山を読んでいるやつダサい」くらいのカウンターを当てるマインドになって、結局読まない本リストの中に放り込んでいた。そうは言っても、サブカルをやっていく上でありとあらゆる場所に寺山は出現し、そろそろ私もこのサブカル臭ぷんぷんの箱を開けるべきなのかもしれない、など思い始めたのがもはや青春も発酵しきった30になる年で、その年になにがあったかというと、寺山修司の没後35周年というイベントがあり、その一環として公開されたマームとジプシーによる演劇『書を捨てよ町へ出よう』があった。それは2015年。寺山に対する自意識過剰による苦手意識を、当時ハマっていたマームの舞台を観たいという意識が打ち負かした形での観劇だったが、これがなるほど、存外によかった。当時の私は「いままで寺山修司を避けてきたのがもったいなかった」などの感想を述べたと言われるが、ならばそれで原作の方を読んだかと言われると読んでいない。読んでいないのである。結局私にとって寺山修司は一つのパンドラボックスで、開けると恐ろしい何かが飛び出してくる。過去の自分を否定しなくてはならない何かが襲いかかってくるのではないか、など思っていたわけなんですがね。まぁ、今回読んでみて、最後に残ったのは希望、みたいな気持ちになりましたね。読んでいきましょう。
まず本作を貫いているのは、徹底して若者へのアジテーションである。父親世代のオールドエイジが築き上げてきた価値観を「速度」「性の解放(復権)」「経済格差による一点豪華主義」などをキーワードに、欺瞞の目を向ける。一言で言えば「大人に負けるな、戦え若者」というスローガンに集約されるかと思うのだが、そのスローガンをより強力にサポートするのが、作中に散りばめられている古典や最新トレンドからの引用である。例えば、本書を開いて冒頭から出てくる引用元を順番に列挙してみると「ピエール・ルソー『速度の歴史』」「J・ブルボン〈ぼくらにとって人生は英雄的な事業ではなくなった〉」「トルストイ」「C・ウイルソン」「十七歳の女子高生が書いた詩」となるが、これらの引用がなされたのは冒頭から僅か5ページ以内の出来事で、つまりは1ページに1ヶ所はなんらかの引用がされていることになる。それらの引用を、最新の流行文化風俗と合わせて政治宗教、そして戦争というテーマに接続させる。こうやって書くと、ならば本書の言わんとしていることを解するためには、それらの引用元を正確に理解している必要があるのか、そんなにハイコンテクストなものなのか、と思う方もいらっしゃるかとは思いますがね。実際その方が「読める」ということはあるのかとは思いますが、果たしてこれを読んだ若者がどう思うかというと「なんか賢そう」ということで、むしろこの「なんか賢そう」という感じこそ、本書がバイラルに広がるきっかけとなったのではないかとも思う。若者の知らない思想を最新の流行と接続させることで、なんとなくそれらの思想を「分かった気にさせる」のがうまい文章という印象を受けましたね。加えて、文化風俗の固有名詞がバシバシと出しながら、物事の直喩暗喩をテンポよく繰り出しており、なんというか、大変にパンチラインが多い。本書自体もまた引用したくなるフレーズのオンパレードとなっており、するってぇと若者というのはインテリにかぶれるものなのだから、当然多くのフォロワーを生む。そんなことを言うと、もしかして寺山は現在でいうところのひろゆきみたいなポジションだったんじゃないかとも思う。オールドエイジの価値観に、堂々と(堂々と、というのが何より大切)NOを突きつけ、若者は若者の文化を築くのだと煽り散らす。皮肉や冷笑が散りばめられた現代のインフルエンサーと重なる部分も多いが、批判や問題提起のみに終始せず、自ずからアクションを起こし、またそれを若者へ呼びかけた点は異なるようにも思う。「はい論破」で終わる机上の議論ではなく、「町へ出よう」と呼びかけたのが本書の大いなる意義であったのだろう。話は逸れるが、私は長らく本書のタイトルを「頭でっかちになるな」「思想をこねくり回すよりまずは行動をしろ」というような意味に捉えていたのだが、読んでみると「行動せよ。ただし思想を持たぬ行動は愚かなので、行動の前には本を読め」というタイトルだと読めましたね。行動は大事。しかし思想はそれに先立つものなのだ。
さて。
というわけでやたら引用しやすいフレーズが多用されている本書であるが、なかでも一番引きやすいなと思ったフレーズはこちらですね。〈正義の存在しない時代は不幸だが、正義を必要とする時代は、もっと不幸だ〉。我々は現在「正義」に満たされていると言って良い。「ポリコレ」が幅を利かせ、過ちを犯した人物には徹底的な「キャンセルカルチャー」が執行される。「正義」を武器に、より良い社会の実現を目指すという大義名分のものに行われる私刑が横行し、「政治的な正しさ」が求められる現在は、果たして「正義を必要とする時代」になってはいないだろうか。正義とはいまや待ち望む希望ではなく、誰もがその武器を手にし執行する時代になった。本書の『月光仮面』の章で作者は「匿名の正義」というものに言及している。曰く「かつて匿名性を求められるのは「悪」の方であったが、戦後「正義」は行き場を失い「悪」への倒錯が始まった」と。続けて「悪とは正義の変装に過ぎない」とも言っているが、この「匿名性を持った正義と悪」の関係は、現在ではまたも転覆しているようにも感じる。「疾風のように現れて、名前も告げずに去っていく」。月光仮面が提示した「匿名の正義」は、このSNS時代とは相性が悪く、むしろ「正義とは悪の変装に過ぎない」という時代になっているようにも思う。寺山が本書で書いた閉塞感はいまや取り払われ、とてもオープンで自由主義的な社会になった。しかしその一方「正義」が幅を利かせる現代に重くのしかかる不自由さというものも、我々は知ってしまった。結果、我々は町へ出ることをせず、匿名の自室で各々の正義を振りかざし続けている。そのことを寺山が「行動」と呼ぶとは思えないが、自室で熾した小さな種火が政治に大きな影響を及ぼすようになった昨今では、町へ出る必要性は薄くなった。我々は、それでも町へ出る意義と、町の価値について考えなくてはいけない。それが、かつての閉塞感と、現在の不自由さを打ち破る道具になるような気もしています。ね。
というわけで、4月の課題図書は寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』でした。5月はフランソワーズ・サガン『一年ののち』です。読んでいきましょう。
それでは本日17時-24時半の営業です。
みなさまのご来店心よりお待ちしております。
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