【32冊目】ちょっとピンぼけ / ロバート・キャパ
新しい月がやってまいりましたね。新しいことはいいことですね。新しさの中に古さが感じられるなんていうのもいいことですね。故きを温ね新しきを知るなんてやつですね。新しさを知っていきましょう。そんな故きを温ねるのにぴったりな当店月初のお決まりといえば、そう「ウィグタウン読書部」ですね。
というわけで、5月の課題図書はロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』。のちに世界的写真家集団「マグナムフォト」を設立し、その最期は戦地で地雷を踏んで迎えたという戦場カメラマン、キャパの手記ですね。5月25日はキャパの命日だということで、5月の選書としてはいいんじゃないですかね。いま再び世界が戦火に覆われようとしている時代に、先の大戦に従軍した彼の手記から何か得られるものがありますかね。読んでいってみましょう。
さて。
本文に入る前にちょっとどうでもいい話をしようかと思うんですがね。私が本書『ちょっとピンぼけ』を知るきっかけになったのは、マームとジプシーの演劇『あ、ストレンジャー』内のセリフだったんですね。「『ちょっとピンぼけ』。ロバート・キャパの。まぁちょっとっていうかだいぶピンぼけだけどねー」というセリフで、当時のマームといえば、まぁ今でもですけど、キレッキレでそんでもってとんでもなくオシャレで、そんなマームが引用するアイテムならばこれは読んでおかねばならぬのかもしれない、など思い手元に文庫を積んでおいた、というのがあるんですね。しかし、これが積ん読の心地よいところで、イケてるアイテムを手に入れた時点で、その役割は9割方果たされたといって過言ではなく、これで私も「『ちょっとピンぼけ』。ロバート・キャパの。まぁちょっとっていうかだいぶピンぼけだけどねー」をいつでも言える身分になったのだと満足して、多少なりページをめくることはあれど、今回に至るまで一度もまともには読んでなかったわけなんですね。まったくもって正しい積ん読の作法と言っていいでしょうね。心地よいですね。読んでいきましょう。
そういうわけなので、読む前からなんとなくの内容は知っていた。キャパという偉大なる戦場カメラマンが、プライベートライアンの冒頭15分のような銃弾飛び交う最前線に随行し、使命感と職業意識でカメラを四方に向けては、人類愛と戦争の愚かさについて独白する、といった内容だろうと考えていたのだけれど、果たしてどうだったかというと、それよりもキャパのジローラモみある伊達男っぷりと、特ダネをスクープしてやろうと意気込む報道写真家の姿の方が印象強く、ある種のタブロイド的な軽薄ささえも感じてしまう。彼の作品が映し出す主題がなんであるのかを想像させることはあれど、それの解説を期待して読むとどうも肩透かしな感じを受けてしまう。これは、私がそもそも写真に造詣が深くないせいもあるかもしれないが、キャパ自身がこの手記を、我々が期待する役割とは違う役割を持たせようとしていたと考えると、大変すっきりする。ならばキャパがこの手記に託した役割とはなんだったのか。ここでは、キャパの友人であり作家のジョン・スタインベックが本書に寄せた序文と、訳者であり、やはり友人の川添浩史、井上清一両氏が寄せた巻末の文章から、キャパが本書に託した役割を想像していきたい。
本文を読み終え、川添氏によるあとがきを読み始めた時に私が一番初めに感じた疑問は「誰だゲルダって」であった。あとがきでは、ゲルダを「キャパの愛人」として紹介しており、それで私は「なるほど、作中のピンキィの本名かな?」など思ったのだが、さらにあとがきを読み進めていると、どうやらゲルダはスペイン戦線で亡くなっているという。本文はそのあとのノルマンディ上陸などを描いているので、時系列的にピンキィとの出会いはゲルダの死以降ということになる。川添氏のあとがきでは、ゲルダはキャパの半身のように描写され、彼女の死がどれだけキャパにとっての悲劇であったかを語っている。本文では、ピンキィに対しての愛をこれでもかと綴っており、彼女と会う以前にそのような大恋愛があったということはまるで感じさせない。川添、井上両氏のあとがきともに、ゲルダの名前は出てきても、ピンキィの名はおろか、その薄紅の髪色ひとつ捉えることはできない。両氏にとっては、ゲルダこそがキャパのパートナーで、その関係性は偉大であり、結末は悲劇であったと認識している様子である。ならばピンキィとは一体何者なのか。彼女との出会いのシーンを改めてみてみようと思う。
すったもんだあった挙句、キャパは無事アメリカ軍の軍属写真家としての証明を得て、それをお祝いするためにアメリカ情報局の秘書の赤毛の女性と一晩を過ごし、しこたま酔っ払った挙句、翌朝、二日酔いの残るまま、出立までの時間を過ごそうと知人の家に向かう。そこで同じく客人としてきていた「金色がかったピンク」の髪をした女性と出会う。この出会いのシーンで彼女は自分を「イレーヌと言います」と自己紹介をしており、キャパとたどたどしいダンスをしたと思ったら、次のページでは「彼女の唇が苺のような味がした」などいっており、その速度感には軽薄さを覚えずにはいられない。そのくせ、いざ出立の日が来て、鉄道駅まで見送りにきたピンキィと再び唇を重ねながらも、走りゆく列車の中でキャパは「やはり、彼女の名前も電話番号も知らないままだった」と述懐しているのである。自己紹介していたのに。イレーヌだよイ・レ・エ・ヌ!みたいな気持ちになる。
その後はキャパのピンキィに対する想いが日に日に高まっていく様子も描かれるのだが、そんなに日がな彼女のことを想って身を焦がしているかというと、必ずしもそうではなく、夜には酒を飲みながらポーカーをし、昼には戦線に赴いて特ダネを得てやろうと闘志を燃やし、その夜にはポーカーのメンバーが一人減っておりテーブルを囲むことができなくなっている、といった日々を過ごしている。そのくせ、戦線を離脱すると真っ先にピンキィの元へ帰り、甘いやり取りをして、小ぶりな苺を味わうなんていうのは、全くもって軽い。二人の関係がどのように深まって、なぜそんなにも愛し合うに至ったかは描かれないまま、キャパは彼女を思いながらも戦地へ赴き特ダネを得ることに躍起になり、挙げ句の果てには待ち疲れて他の男性と結ばれたピンキィに振られると同時に、戦争の終焉を告げる新聞が届き、彼の物語は終わるのである。
彼が、この手記においてピンキィを記号的なヒロインの位置に配置していることは明白で、戦争が終わりを告げてようやく彼も特ダネを求めて奔走しなくても良いという状況になったと同時に、その想い人に振られてしまうというオチは「仕事と私どっちが大事なの」的ミームの言わば定型とすらいってよく、仕事に追われた男の末路としては悲劇的でさえあるのだ。だからこそ、この定型をなぞるためには、ピンキィは彼にとって代替の利かない存在でなくてはならず、しかしながら、そのつもりであとがきを読み始めると「彼には本作には全く現れない、心から愛した女性が過去にいてだね」みたいなことを語られるので、なんじゃそりゃ、となってしまう。彼がピンキィに与えた役割は「仕事に邁進する男性を待ちきれずに袖にする女性」というものだけなのではないか、とさえ穿ってしまう。その場合、キャパはこの手記自体を「愛する女性さえも顧みず、命の危険さえ伴う最前線で勇敢に職務を遂行した、伝説的カメラマン」としての自分をアピールするためのプロパガンダとして利用したのではないか、とさえ感じてしまう。
こうして穿った見方をする一方で、スタインベック氏の寄稿に見られる、キャパの芸術に対するものの見方も、本文からはうかがい知ることができる。スタインベック氏の寄稿文に曰く「例えば、戦争そのものを写すことは不可能であることを、彼は知っていた。(中略)然し、彼はその外にあるものを撮って、その激情を表現する」。そうであるならば、ノルマンディ上陸作戦(Dデイ)に随行し、決死の思いで撮影した106枚の写真の大半が、現像の際のミスで失われ、残ったわずか8枚の写真に関しても、ぼやけた「ちょっとピンぼけ」な写真になってしまったことも、キャパの芸術性を損なうものにはならないはずである。本手記は、キャパがとらえた「ピンぼけの戦争」と、その写真の裏側にある「ピントのあった戦争」との表裏をつなぐものである。でも、まぁ、なんですかね。「特ダネ!特ダネ!」言って、酒とギャンブルと女を愉しんでいる伊達男の像を結んでしまうと、どうも、それさえも自分の写真を売り出すためのものなんじゃないか、とか思っちゃいますよね。どうなんですかね。「ピンぼけの戦争」と「ピントのあった戦争」という二つの世界を行き来した写真家の写し出すものは、隣国で戦火の上がる現代を生きる我々に、何を訴えかけてきますかね。
というわけで、5月の課題図書はロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』でした。6月は御田寺圭『ただしさに殺されないために』です。こういうのも取り上げていきましょうかね。読んでいきましょう。
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