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【基礎から学ぶ浄土真宗】正信念仏偈の概要③

「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ)の概要についてみています。

前回、「正信偈」は三つの段落から構成されていることをみていきました。

一つ目の段落が「帰敬序」(ききょうじょ)、二つ目が「依経段」(えきょうだん)、三つ目が「依釈段」(えしゃくだん)でした。

前回は、一つ目の段落である「帰敬序」の内容についても、ご紹介しました。

今回は、二つ目の段落である「依経段」の内容についてご紹介いたします。

浄土真宗のお経本をお持ちの方は、宜しければお手元にご準備いただき、照らし合わせたり、書き込んだりしながらご覧ください。

▼動画でもご覧いただけます。

◆依経段

さて、「依経段」(えきょうだん)に記された内容についてみていきましょう。

まず、「依経段」の段落の確認ですが、「正信偈」三句目の「法蔵菩薩因位時」(ほうぞうぼさついんにじ)というところから、「難中之難無過斯」(なんちゅうしなんむかし)というところまででした。

そして「依経段」とは、お経に依って記された段落という意味です。

何のお経に依って記されているかというと、浄土真宗で根本のお経とされる『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう)でした。

さて、「依経段」の初めには、法蔵菩薩(後の阿弥陀仏)の物語が記されています。

「法蔵菩薩因位時」という部分から「超発希有大弘誓」という部分までの意訳をみてみましょう。

「はるか昔、ある国王が、世自在王仏という仏の説法を聞いて感激し、さとりを求める心をおこしました。そして、国や王の位を捨て出家し、法蔵という名の菩薩となりました。法蔵菩薩(後の阿弥陀仏)は、世自在王仏のもとでの修行中、様々な仏の浄土が建てられた理由を学び、浄土や浄土にいる人間や神々の善し悪しをご覧になりました。そして、「迷い苦しむ全てのものを救う」という、この上なくすぐれた願いをたて、「救えなければ、私は仏とならない」という、たぐいまれな誓いをおこされました」

(「正信念仏偈」/親鸞聖人)

「依経段」の最初の部分には、このような法蔵菩薩(後の阿弥陀仏)の物語が記されています。

この意訳は、「正信偈」の直訳ではありませんが、もととなる『仏説無量寿経』の内容から補って意訳をしました。

『仏説無量寿経』には、「ある国王が、さとりを求める心をおこし、国や王の位をすてて出家をした」という物語が記されています。

その国王とは、法蔵菩薩、後の阿弥陀仏のことです。

阿弥陀仏は、もともと国王であり、国や王の位をすてて、出家をしたと記されています。

こうしたエピソードをどこかで聞かれたことはありませんか。

仏教の開祖であるお釈迦様ですね。

お釈迦様も、もとは釈迦族の王子でした。

お釈迦様もまた、国や王子の位をすてて、出家をします。

こうしたお釈迦様の生涯をもとに、阿弥陀仏の物語もつくられていったと言われています。

こうしたお釈迦様や阿弥陀仏の出家のエピソードから、私たちはある問いに直面することがあります。

それは、私たちは何のためにこの世に生を受け、何のために生きているのかという問いです。

国の王という存在は、富や名声や権力など、世俗のあらゆるものを手に入れた象徴的存在です。

世俗を生きる私たちが手に入れたいと思うものを手にしている。そういう象徴的存在が国王です。

しかし、お釈迦様や阿弥陀仏は、国や王の位をすてて出家をします。

国や王の位をすてるということは、手に入れた富や名声や権力などを手放すことでもあります。

お釈迦様は実在の人物ですが、物や食事など様々なものを、王である父から与えられても、物思いにふけってばかりだったと言います。

自らの欲求を満たすことに終始する生き方では、虚しさがつのり、心から満たされることがなかったのかもしれません。

また現実的には、国王であっても全てのものが手に入るわけではありませんね。国王ならではの悩みもあるでしょう。

手にしているものが多ければ、それが奪われないかと、悩みが増えることもあります。

私たち人間は、なければないで悩みますが、あればあるで悩むことがあります。

一説には、お釈迦様は戦争や紛争によって、多くの人が死んでいく事実に悩んでおられたとも言われています。

何かを手に入れていく、成し遂げていくことは、私たちに自信や満足感、幸福感を与えてくれます。

しかし一方で、どこまで手に入れても際限はなく、ある程度のところで満足することがなければ、いつまでたっても満たされることはありません。

そして、手に入れる過程で、他のいのちを殺したり、他の人の心を踏みにじることもあります。

ある男性は、定年まで一生懸命働いたそうです。

しかし、定年間際に奥様を病気で亡くします。

「自分はこれまで、いったい何のために働いてきたのか。妻や子どものために、一生懸命働いてきたのではなかったのか。しかしいつの間にか、仕事だけに打ち込んで、妻や子どものことを顧みることも忘れていた。なんでもっと優しくしたり、いたわることができなかったのだろうか。妻を失って初めて、そういうことに気付かされました。今頃気付いても遅いのですが」

奥様を亡くした後、このようにおっしゃっていました。

私は、何のためにこの世に生を受け、何のために生きているのか。

そうした問いへの答えを求めて、お釈迦様は出家をしたと伝わっています。

阿弥陀仏も国王である時に、世自在王仏という仏様に出会い、その説法を聞いて感激し、出家をします。

こうしたお釈迦様や阿弥陀仏の出家のエピソードから、私たちは「何のためにこの世に生を受け、何のために生きているのか」という問いに直面することがあります。

そして、こうした問いについて考える機会となり、自らの人生を頷いていくご縁となるのが仏法(仏教)です。

親鸞聖人の言葉に、このような言葉があります。

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」

「阿弥陀仏のはたらき(教え)に遇ったならば、むなしく過ぎていく人生を送る人はいません」

(『高僧和讃』/親鸞聖人)

親鸞聖人が「正信偈」をつくられたのは、どうかこの阿弥陀仏の教え、お念仏の教えに遇ってほしいという思いからつくられたと言われています。

それは、お念仏の教えに遇うことで、何のためにこの世に生を受け、何のために生きているのかという問いに対して、深く頷いていくことのできる人生へと転換されていくからです。

「正信偈」は、その全体を通じて、阿弥陀仏やお念仏の教えの素晴らしさが讃えられ、どうかこの教えをたよりとしてほしいということが述べられています。

その中でも前半の「依経段」は、『仏説無量寿経』というお経に説かれる内容を依りどころとしながら、色々と言葉をかえて、お念仏の教えについて記されています。

いかがだったでしょうか。

今回は、「正信偈」の「依経段」の内容についてご紹介をしました。

どのようなことを感じられたでしょうか。

今回は概要ということで、「依経段」の初めの部分の内容をご紹介させていただきました。

「正信偈」の詳しい内容については、「正信偈を学ぶ」というシリーズで細かく解説をしています。

ご関心がある方は、そちらの動画もぜひご覧になってみてください。

次回は、「依釈段」の内容について、ご紹介したいと思います。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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