素敵なことはまだ訪れちゃいない

自分はそもそもなぜ、今の職にいるのか、その分野で成功しようともがいているのか最近よく考える。国際政治学の研究者の卵となって、修行の年数が長くなればなるほど、時々それがわからなくなる。そうして悩んでいるうちに、私の人生、何も成し遂げられていないんじゃないかと不安になる。

幼い頃を振り返ってみると、私はとにかく大人たちがつく嘘が嫌いだった。特に私は家族や親戚のなかでも末っ子だったので、周りにいる人がみんな年上。そんななかで私だけ子供扱いをされたり、口先で適当なことを言われたりすることに非常に敏感だった。「今度〜買ってあげるから」「〜に連れてってあげるから」という親の口約束も、それが守られないたびに傷つき絶望する私の姿をみて、親たちは守れない約束を私にはしなくなった。

親だけでなく学校の先生に対しても穿った見方をしていた。先生だって一人の人間だから、きっと矛盾だらけなんだろうなと身構えていた。

英文法をひたすら教えている英語の先生がいたら「もしかしてこの人は英語を喋れないから日本語で文法教えてるんじゃないかな」と思い、「先生は英検何級?」と確認してみたり。友人であるクラスメートについ暴言を吐いてしまった先生がいたら、その後熱りが冷めてからその先生のもとに行って、「先生として言っちゃいけないこと言ったんだから謝った方がいいんじゃない?」と本人に謝罪するよう交渉した。長時間の採点で疲れているに違いない先生に少しでも笑ってもらおうと、テストの解答でわからない箇所があるとわざと大喜利みたいな解答をしてみたり。特に嫌われていたとは思わないが、ませていたし、扱いにくい生徒ではあったと思う。

大人への猜疑心は、次第に社会へも向けられていった。社会のなかのあらゆる矛盾点はすぐに見つけられたし、興味深いとも思った。私が政治に幼い頃から興味を持っていたのも、おそらくそのためだと思う。政治の世界には理想と現実の矛盾が蔓延している。

たとえば、なぜ日本は唯一の被爆国として核爆弾の悲惨さを訴え、核廃絶を謳っているというのに、アメリカの核の傘に入り、しかもその拡大核抑止力を高めようと努力しているのか。高校の授業で、この点を指摘し質問してみたが、その先生は「そうだね」と流すだけで何も真剣に答えてくれなかった。この先生には落胆したが、日本の高校の先生はこんなもんか、と驚きはしなかった。

それでも私が通っていた学校ではとにかくそのような疑問点を呈示することは良かれとされてきたし、そういう場をたくさん与えられた。個性を重んじ、異なる意見を交換し議論し合うことを奨励する文化があったし、書くこと、話すこと、相手の意見を聞いた上で自分の考えを相手に伝える力をとにかく鍛え磨き上げる学校だった。

そんなに上手い方ではなかったが、人前に出ることも嫌いではなかった。我が家では「目立つことは良いこと」、「目立たないことはつまらないこと」とする風潮があったので、自然に前に立つ機会があれば積極的に手をあげるような子供になっていた。

今自分が研究者を目指しているのは、おそらく人間や社会への猜疑心、そういう矛盾点への好奇心と、自分の考えを表現したいというパッションがあるからだと、ここ最近になってわかった気がする。

スティーブ・ジョブズによるスタンフォード大学の演説で以下の言葉がある。

"You can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards."(将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。)

私にとっては、まさに点と点をつなぐことができた瞬間だった。

私には音楽は作れないし、アートの才能もなく、演劇もやったことない。モデルのように人前に立ちポーズすることでお金がもらえる容姿でもない。ただ文章という形の表現はできる。むしろ好きだし、得意な方だとも思う。

一時期は政治記者になりたいと思って、二社だけだが大手新聞社とテレビの採用試験を受けたこともある。何回か面接のステップも進んだが、楽しく面接官とお話して、そのまま落とされた。

並行していて進めていたのがアメリカの大学院進学という道だった。運良く奨学金にも合格し、親にも金銭の負担をかけずに通うことができた。その後はアメリカで就職し、アメリカで博士号をとるべくさらに大学院に通い修了した。

今は研究者の卵として、大学で教鞭をとることを目指している。狭き門だし、フルタイムの仕事を得るのはなかなか難しい。

それでも、研究者という仕事は表現力をフルに稼働できる仕事であり、そして未知の世界を拓いたり、社会の矛盾を理解しやすい事象として落とし込む作業をする職でもある。大学で教鞭をとることは、学生の前で表現することだし、学生と色んなことを一緒に考え、議論し、学び合える仕事だ。

さらに教鞭をとることだけが研究者の仕事ではない。特に政治学など社会科学系はそうだが、きっと成功すれば、色んなところで社会について考え表現する機会がもらえるはず。面白い疑問を提示し、自分の考えを相手にわかりやすく伝え、一緒に考え、社会が持っている知識を深めることに貢献できる。

最近なぜ自分がアイデンティティクライシスに陥っていたかと思えば、おそらくまだそういう仕事をもらえておらず、成果を挙げられていないから。

でもその答えは簡単だった。成果を挙げられていないのは、まだ修行の身を脱却できていないから。いずれもっと表現できる機会ももらえるようになるはず。

まだ夢の途中なだけ。

この道をもっと進んでいけば、いずれ新たな点と今を結べるときが来る。

それまでに腐らないことがどんなに重要か。防腐剤を切らさずに、自分をメンテナンスして日々できることを行い、夢を追い続けること。

「素敵なことはまだ訪れちゃいない」

それだけのことだ。

決してこの道が間違っていたわけではない。






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