「私」から「私たち」へ
桶庄のミッションはご存知の通り
「すべては、私たちの明日の笑顔のために!」です。
私は、この理念は世界中どこへ行っても、
また誰を相手にしても、
胸を張って語れるものだと自負しています。
しかし、
ほんとうの意味で理解できているでしょうか。
今週はこの点について
改めてみんなで一緒に考えてみましょう。
さて、この中に出てくる
「私たち」という言葉は
どのような意味でしたか?
ここでいう「私たち」とは、
お客さまはもちろん、
共に働く従業員同士、会社そのもの、
そして取引先やパートナーズ、メーカー、
家族、就活生、地域社会など…
ご縁を頂いたすべての方を含む
包括的な概念でしたね。
「人は人、自分は自分」
という言葉があります。
他人に流されないという意味で使われますが、
ともすると
「他人のことなんか知らん。
自分さえ良ければそれでいい」と、
自分勝手を都合よく
正当化するために使う人もいます。
これは誤った考え方です。
この先に待っているのは
地獄のうどんの世界であり、
間違っても天国ではありません。
私の笑顔だけを考えるなら、
それは単なる利己です。
例えば、
この世界のどこかに飢えと貧困に
苦しむ人がいたとして、
そのために本気で心を痛める人はないでしょう。
しかし「スーダンでは長年続く内戦によって、
大量の難民が発生し、
今も200万人以上が粗末なビニール小屋での
暮らしを強いられている。
食べ物は海外の支援団体に頼りきりで、
味気ない混合食糧とビタミン剤だけ。
人口過密による不衛生な環境の中、
コレラや赤痢が蔓延し、
まともな医療どころか
清潔な水にさえ困る状態にある。
難民の半分以上が子供で、
肉親を失った孤児も少なくない。
終りが見えない暮らしの中で、
15歳の少女スマヤは1人で兄弟の面倒を見ながら、
心に傷を負った子どもたちの
ケアを行う診療センターを、
ボランティアで手伝う毎日を送っている…」
(以上2007年のNHK記事より抜粋編集)
人は知らない人に対しては
どこまでも冷たくなれる生き物です。
残念ながらこれは事実でしょう。
でも、相手を知ると別の感情が芽生えてくるのも、
また事実です。
いま皆さんの中の
「私たち」の感覚はどこまで広がっていますか?
「私個人」に留まっている人は問題外として、
「自分の家族」まででしょうか。
それとも「自分のチーム」まででしょうか。
はたまた「自分の会社」まででしょうか。
「私たち」の範囲をどこまで広げられるかで、
見える世界は変わってきます。
「私たち」の範囲が広がっていくことを、
私は人間的成長と考えたい。
相手のことを自分のことのように
考えられるのが人です。
せっかく人間として命を与えられたのに、
「自分だけ良ければいい。他は知らん。
人は人、自分は自分」
これは、あまりにも寂しい生き方だと
私は思います。
相手のことをあたかも
自分ごとのように想像するには「共感」が必要です。
楽しいことばかりでは人間ができません。
生きていれば辛いことも、
苦しいことも、悲しいことも、
また腹が立つこともあるでしょう。
また、
なかった方がいいような出来事も起こるでしょう。
でもその1つ1つが、
あなたの感性を豊かにしてくれます。
いつか誰かが似たような境遇に立たされたときに、
その人に寄り添える優しさに変わっていきます。
人生経験が浅いと、人に共感もできません。
「苦労知らず」が
褒め言葉にならないのはこれが理由です。
幸せとは、
人と人との間にだけ咲く美しい花のことです。
効率だけを突き詰めると、
人間関係はどんどんドライになっていきます。
一見、非効率とか時代遅れにも見える
社員旅行や内定式などの会社行事は、
「私たち」の感覚を広げてくれる大切な時間です。
自分に家族がいるように、
職場の仲間にも大切な人がいます。
まずは顔を合わせること。
笑顔で挨拶を交わすこと。
相手のことを知ること。
人に恵まれる人生こそ最幸の人生です。
だからもう少し「私たち」の輪を広げてみませんか?
今週も幸せの種を蒔きましょう。
私たちの周りにいてくれる大切な人が
幸せであり続けるように。