引用する芸術家(映画監督編)
1,イントロダクション
自分は、読書や映画が好きで、偏りはあれど、様々な本を読んだり、映画を観たりすることがある。誰かに勧めたり、そういう話で盛り上がりたいところがあるけれど、なかなかそういう機会に恵まれない。かつて、「映画好きの集い」みたいなものに行ったことあるが、そういう人は、割とメジャーな作品、所謂シネコンみたいなところで上映されている作品で語り合うことが多く、自分としてはそういう作品を時々しか観ないので、話の輪に入ることが出来ない(元々、話に入ること自体、苦手で避けている節はあるけれど)。自分は、思い込みが激しく、前述の通り偏りやこだわりが強すぎて、他人から面倒くさがられる所もある。どういう思い込みかというと、「映画を観るのが趣味」「本をよく読む」と言われて、「メジャーなもの」「有名でスタンダードな名作」しか観ていない、読んでいない、なんて思われると、本当の映画好き、読書好きとは言えない、と思い込みである。皆が好きなものに安易に飛びつきたくない、という天邪鬼な性分を抱えているため、好きなものの方向性が、かなりマニアックなところに行きついてしまい、話が合わない、なんてことが多い。
自分が好む映画は、ミニシアター系、あるいは、アテネ・フランセで特集上映が組まれそうな、DVDだったら、紀伊國屋書店とかIVCから出ている作品、もしくは、蓮實重彦氏や四方田犬彦氏が勧めそうな、傍から見たら、映画狂(シネフィル)だとか、スノッブな人と揶揄されそうな作品が多い。でも、そういう作品の方が、芸術性に優れていて、あれこれ考えたり、分析や研究しがいがあったり、妙に心の隅の方で、蟠りとなって残るから、不思議な魅力がある。小説などでも、割と昭和中期・後期の文学作品が好きだったりする。今や現代の作品も時々読むが、どちらかというと、昭和の時期に、「この作品が生まれたのか!」と思うと、意外と最先端で、読めたり、面白いと思ったりしてしまう。
今回、好きな小説家・映画監督が、割と「引用」している人が多いことに気づいた。それらを自分なりに紹介していきたい。
2,引用する映画監督
2-1,ジャン=リュック・ゴダール
まずは、ジャン=リュック・ゴダール監督(以下、ゴダール)。言わずと知れた、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手で、フランス映画界の巨匠と呼び声高く、頂上に君臨している監督である。
自分が知ったきっかけは、あまりよく覚えていないが、多分、音楽家の菊地成孔氏が好きで、そのルートで知ったような気がする。彼もまた、相当なゴダール狂で、菊地氏がやっているユニット(FINAL SPANK HAPPY,JAZZDOMMUNISTERSなど)の曲で、ゴダールの諸作品のタイトルを拝借するほど、色濃く影響が出ている。例えば、SPANK HAPPYでは、「たのしい知識」や「フォーエヴァー・モーツァルト」、「子供達はロシアで遊ぶ」、JAZZDOMMUNISTERSでは、「ヒア&ゼア」という楽曲があり、確実にゴダールをリスペクトしているがゆえに、出来上がった芸術作品である。それと、自身がお世話になっている翻訳家(兼文筆家――この方もキクチさんなのだが)の記事を見て、映画『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』が好きで、その字幕に魅了され、字幕翻訳も夢見てた、との趣旨を聞いて、それを知り、「ゴダールはどんな人か」と興味を持つキッカケだったような気がする。
そのゴダールを観たのは、9年前の今頃で、今は跡形も無くなってしまった地元のTSUTAYAで、『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』をレンタルし、それで言葉では表現しづらい、それでも面白くて何とも言えない衝撃を受けて、それから今に至って、ゴダールの諸作品を、買ったり、借りたり、劇場で観たりしている。2015年日本で公開された『さらば、愛の言葉よ』は、3D映画で、シネスイッチ銀座にて2回観たし、最新作の『イメージの本』も劇場で観た。
ゴダールの作品は、様々な文学作品や絵画、はたまた、映画自体から引用して、自分の中で吸収し、映画に落とし込み、芸術作品として昇華することが多い。デビュー長編作の『勝手にしやがれ』は、ウィリアム・フォークナーの『野生の棕櫚』が出てきたり、『はなればなれに』では、フランツ・カフカに似た人が主要人物であり、ジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』の曲が流れたり(これは、音楽が両方ともミシェル・ルグランだから、お遊びやサービス精神でやったことかもしれないが)、有名な『気狂いピエロ』は、最後の台詞で、「見つかった/何が/永遠が」というアルチュール・ランボーの詩を言いながら、溝口健二監督(以下、溝口)の『山椒大夫』のラストシーンを再現している。
ゴダールは、溝口の影響を多大に受け、『女と男のいる舗道』のラストシーンは確実に、溝口の遺作である『赤線地帯』の終盤の男女のいざこざがモチーフのように見えるし、ゴダールの『メイド・イン・USA』で、日本人を出演させているが、この役名が「ドリス・ミゾクチ」である(演じたのは、小坂恭子)。また、『ウイークエンド』でも、『雨月物語』と出てきて、舟のシーンが出てきて、「オマージュだな」と思ったところがあった。ゴダールは、来日した際、池上本門寺にある溝口の墓にお参りにいったのだとか。
ゴダールは、1988~98年に断続的ではあるが、約10年の歳月を費やして、『映画史』というビデオ映画を製作した。これこそ、「引用」がかなり使われた作品で、ゴダールの集大成といっても過言ではない作品であろう。それは、映画が生まれた1895年のリュミエール兄弟から遡り、ゴダールが影響受けたであろう、古今東西の映画監督の映像や肖像、音声、そして、思想や哲学、小説などが「引用」され、織り交ぜられて一つの作品を作り上げている。日本を例にとると、前述の溝口、小津安二郎、勅使河原宏、大島渚が出現したり、イタリア映画も、フェリーニの作品が出てくる。フランス映画も、ロベール・ブレッソン、ジャック・タチ、フランソワ・トリュフォー、アラン・レネなどが出てきたり、最終的には、自分の作品も組み込んでいて、「自分が映画の神だ!」と言わんばかりに、主義を主張している。
ちなみに、ゴダールのスペルを英語にしてみると、"Godard"であり、よく駄洒落やギャグ、言葉遊びで使われるのだけれど、「ゴダールの中に、神(God)が入っている、ということをよく指摘している。前述のリュミエール兄弟も、「リュミエール」は、フランス語で、"Lumière"、つまり「光」であり、偶然の一致ではあるが、よく語られたエピソードや指摘である。
自分にとって、ゴダールは、素晴らしい映画監督の一人ではあるが、まだ発展途上の映画監督のような気がする。50~60年代から始まって、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として活躍した後、60年代後半~70年代前半で、政治映画を作る。それから、アンヌ=マリー・ミエヴィルと「ソニマージュ」という実験的な映画作品群を製作し、『勝手に逃げろ/人生』で商業映画に復帰した後、様々なスタイルや手法で、観客を魅了している。これほど不思議な映画作家はいないんではないか、と思う。ゴダールは、昨年90歳になった(クリント・イーストウッド監督もだが)。多分、以前よりは作る映画のペースは年齢的なものもあり、落ちたとは思うが、90歳になって、作り上げた作品が気になる。日本においては、新藤兼人監督も、100歳で亡くなられた(その前に、90代後半で、映画を製作している)し、ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ監督、90歳前後で『家路』という素晴らしい作品も残しているし、100歳を超えても、映画を何本か製作し、106歳で亡くなられている。これから、ゴダールがどういう作品を作り上げるか、自分自身も待ち遠しい。
2-2,ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
あともう一人、ゴダールほどではないが、引用を多用する映画監督がいた。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督(以下、ファスビンダー)である。37歳で逝去したファスビンダーは、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手として活躍し、16年間という短い期間ながらも、44本という驚異的な数の映画作品を残し、ファスビンダー死後、後世の映画監督にも、多大な影響を与えているといっても過言ではない。
ファスビンダーの『第三世代』という、とても難解な作品がある。作品自体は、かなり面白い作品なのだが、話の筋が掴めなくて、相当困惑してしまう節がある。まず冒頭からいきなり、ロベール・ブレッソン監督の『たぶん悪魔が』が小型テレビのモニターに映し出されている。その後は、「『惑星ソラリス』みたいな夜景だ」という台詞もあったり、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』と連呼しすぎて、頭が痛くなりそうな感じを誘発している。
『自由の代償』という1975年の作品は、ファスビンダー本人が演じる「芸人・フォックス」の本名が「フランツ・ビーバーコップ」であり、これは後に15時間の大作となる『ベルリン・アレクサンダー広場』の主人公から由来しているとのこと。この「フランツ・ビーバーコップ」は、『自由の代償』や『ベルリン~』以外にも、ファスビンダー作品の至る所で、名前が出現しているらしい。
また、『愛は死よりも冷酷』は、確実に前述のゴダールの『はなればなれに』をモチーフにしたり、まだ観賞していないので、何とも言えないが、代表作の『不安と魂』(別名・『不安は魂を食いつくす』)は、ダグラス・サークの『天はすべて許し給う』をモチーフにしている。
余談ではあるが、前述のゴダールの『映画史』にも、突然ファスビンダーの肖像画が出てくる。やはり、ファスビンダーは、偉大な映画作家の一人だったんだな、と改めて思う所がある。自分自身、まだ10作品しか観ていないので、劇場でしか観れない(DVD化されていない、あるいはもう高価になっていて買えない)作品や本などを読んで、理解を深めていきたい。
3,終わりに
今回、ゴダールとファスビンダーについて紹介したり、どのように引用されているか、という視点でいろいろ書き連ねた。両方とも偉大な映画作家であるし、ゴダールとファスビンダー、相互に影響を及ぼし合っていたんだな、と思う。しかし、決定的な違いは、探してみれば、結構多く、それが面白い。まず、国籍(ゴダールは、スイス・フランスの二重国籍、ファスビンダーはドイツ)も違うし、作風も違う。蓮實重彦氏が、『JLG/自画像』のDVDの特典映像にて語っていたトークショーによると、「ゴダールは、鏡を使わないし、鏡を使うことで、自分自身が映ることを回避し、怖がっている」趣旨の分析をしていて、「なるほど」と思った。「鏡」で、自分が思い出したのは、ファスビンダーの諸作品であった。ファスビンダーは、かなり鏡を多用するし、その使い方も面白い。『自由の代償』や『あやつり糸の世界』、『シナのルーレット』などでも、頻繁に鏡が象徴的に表れている。
映画や小説は、引用しても、パロディだったり、オマージュだったり、「○○に捧ぐ」みたいなものがあったりして、そういう視点から見ると、「なるほどー」と思ったり、「そうなのか!」と思い、元ネタや何処から出典されているか、探りたくなるから面白い。音楽でいうと、中古レコードをディグする、いわゆる、発掘するような感じで面白い。
音楽で思い出したが、音楽の手法で、「サンプリング」というのがあり、昔の曲をそのままトラックに乗せて、別の曲にすることが多い。有名な例であれば、Dragon Ashの「I Love Hip Hop」は、ジョーン・ジェットの「I Love Rock'n'Roll」のサンプリング・パロディみたいなものだし、加藤ミリヤのデビュー曲「夜空」は、Buddha Brandの「人間発電所」のサンプリングだということは、ファンの間では有名な話である。自分の好きなPUNPEEの「Bad Habit」という曲も、PVからリリック、トラックまで、完全にサンプリングをしている。PVなんかは、確実に前述のゴダールの『気狂いピエロ』だし、トラックは、トム・ブラウン(Tom Browne)の「Funkin' for Jamaica」(Towa Teiもカヴァーしていて、多分こっちが元ネタかもしれない)であるし、野猿 Feat. CAの「First Impression」や山崎まさよしの「セロリ」が元ネタのリリックもある。ちなみにこの曲である。映画好きなP様だったら、やりかねない、素晴らしい作品である。
あと、TBSの『水曜日のダウンタウン』の演出家・プロデューサーの藤井健太郎氏の本『悪意とこだわりの演出術』も、もしかしたら参考になるところはあるかもしれない。結構、引用やサンプリング的手法を取り扱った本で面白かった記憶がある。是非、機会があったら、手に取って、読んでほしい。
文章を締めくくるのに、まとまりがなく、散漫になってしまった。
次回は、引用する小説家について語りたいと思います。
それでは。
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