年齢を重ねてきた結果、見えてきたものは
年齢を重ねて経験値を積み重ねて大概のことはこなせる(経理財務的分野と対人スキルは…駄目かな)ようになったのはよかったと思う。
「歳をとるのも悪くはない」
けれど、その分だけ負担になるものが増え、自分自身の体力も削られるけれど、「しがらみ」がさらなる負担を課してくるわけで。
誰しにもあることなのかもしれないけれど、そんな現実に向き合う日々。
一度、理不尽なことを受け入れてしまうと人はその後も理不尽なことを受け入れ続けざるを得なくなる。「それが仕事だ」「それが人生だ」と言われればその考え方もごもっとなことでそれが当たり前のことなんだろう。けれど、その当たり前なことは「誰の目で見ても客観的にみて当たり前のことをしている(指導、連絡、フォロー)」環境であって初めて成立するものだと思う。前提としてあるべきものもなく「それが仕事だ」「それが人生だ」と言われても、何にも説得力がないし「それって、貴方の不得手なこと面倒くさいことを人に押し付けているだけじゃないですか?」と言いたくもなる。
それでも黙々と粛々と淡々とやることはやりますが。
そうやって黙って受け入れるべきではないことを受け入れてしまった結果、ただただ負担ばかり増えて誰にも頼れない相談もできない状態に落ち入り、疲れ切っている。変わる努力、変える努力だけに心血を注ぎたいけれど、ただただ理不尽なことに足を引っ張られて地面に釘付けされている感じがしてならない。その釘を引っこ抜いてもまとわりついてくる「理不尽なこと」や「向き合うべきではない人達や環境」があるのなら無視してしまえばいいのはわかっているけれど、年齢を重ねてしまうとそれがなかなかできなくなっていくわけで。
今のような状態であり続けること(変化がなく「孤立で孤独」な状態、話し相手も限ら…)が自分自身の為になるとは思えない。
こうしたことを考え少しづつでも行動に移しているということは「変わる時期、変えられる時期」なんだと思うけれど…人の繋がりに欠ける自分みたいな人間にそんな資格があるんだろうか。
前向きな気持ちと同じくらいそんな後ろ向きな感情もあったりする。
多分、それは誰かが言った「業務の引継ぎは、お互いが同じ業務をできるようにしていくことで、誰かが欠けてしまっても業務が円滑に回っていくようにするために行うもの」という概念が適用されることなく、ほぼほぼ1人でなんとなく「幅広く」のことをやり続け(やるような空気感を作られ)、20年近くも同じ場所同じ職種で働き続けてきたのに、ずっと私だけ他の人とは別のルートを1人で歩き続け「誰かと一緒に」仕事をし仕事の話をしてきたことってほとんどないからなんだろう。
前向きな自分も後ろ向きな自分も「自分自身」ではあるけれど、後ろ向きな自分の方が勝ってしまっているのは現実逃避かつ甘えているだけなんだろうか。