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続けていく為には、

人間は経験したことのないことの方が多いけれど、実際には自分が経験したことでなければ物事に対して判断ができず行動に踏み出せないもの。また、「嫌だな」と感じたことに対しても同様の反応を示すもの。これは人間の生存本能の現れだと思う。そうやって自分の身を守っていこうとしている。

けれど、それでは駄目だと思っているからお互いに協力し合い理解しあおうとする。自分ではできないことに対して「お金」という対価を通して、自分ができないことを他者に助けてもらったりする。これもまた人間の生存本能の現れであり、こうして自分の身を守っていこうとしている。

そこに存在しているのは「不安」という感情。それは時間の経過や経験の積み重ねによって改善されていくだろう。そうして改善されていく過程において、周囲との軋轢も生まれがちだけれども、それがお互いの「理解」へと繋がっていくものなんだろう。「人と人」とのやりとりとは、そういうものなんだと思う。そんなことに今更気が付いても遅いのかもしれないけれど。

「不安」が改善しお互いの「理解」へと繋がっていけばいいけれどそうなっていかないのが「人の心」の難しいところで、「不安」な感情が高まり過ぎて「自己中心的」な言動や行動を取っていると受け取れるような空気を持ってしまう人の場合、なかなかいい方向へと進んでは行かない。本人は自己中心的でいるつもりはないことの方が多いと思いたいし実際にそのつもりはないことの方が多いとは思う。けれど、「開き直られたり」「明らかに自分のことだけしか考えていない」人も極たまにいたりする。パワハラとまでは言わないけれど、これってハラスメントの一種なんじゃないかって思えてならない。

コミュニケーションが不足しているからそんなことが起きてしまっているとも言い切れないから、そんな人との間でもコミュニケーションを取るべき…ではあるけれど、自分の方が心身ともに滅入ってしまう様な気がしてならないし、そうやって時間を浪費し人生を…と他罰的になるつもりはないけれど、そうした一面があったことは否めないこれまでの我が人生だったと思う。

(一番の原因は組織構造にあるけれど、自分が経験したことではないことに対して「開き直られて、見て見ぬふりをされ続けてきた」ところにそもそもの問題がある)

こんな環境の中で働き続けていくことが自分自身の為になるのだろうか。時間の経過が解決するものもあることがあることはわかっているけれど、「自分が経験したことでなければ物事に対して判断ができず行動に踏み出せないもの。また、「嫌だな」と感じたことに対しても同様の反応を示すもの」ということは、歴史は繰り返されていくもの。これまで自分が目にしてきたこと、触れてきた事を考えれば…こんな環境の中で働き続けていくことが自分自身の為になるとはどうしても思えない。

向き合い方を変えるか、働き方(就労環境)を変えるしかないだろう。

「自分が経験したこと」に対する実態や考え方は「他のことに」もあてはまるものなんだと思う。育児・介護・自分自身の病気…それを周囲に公言し協力を求めたとしても、言われた側からすれば「自分が経験したこと」「自分の周りにそうした人間がいたこと」がなければ、理解や協力はしてもらえないだろう。「いや、協力を求めたいのなら自分を理解してもらう努力を、自分の状況を理解して…」ということが必要なのはわかる。でも、それでも理解や協力は得られ難いものだと思う。冷めた見解かもしれませんが、それもまた人間の生存本能の現れでありそうやって協力や理解を求められた側の人間は、自分の身を守っていこうとしている。

……ああ、自分の人間性の問題か。そうなんだろうな。そう、コミュニケーションを取ることが足りなかったから、こんなことを考えてしまうのだろうし、実際に理解や協力も得られないのだろう。…ほぼほぼ全てのことに対して1人でやり続けて、手ごたえも反応もやりがいも感じられないまま10数年経過していれば、自己肯定感も持ちづらくなる。そのなれの果て。自己責任な面があることは認識し反省はしなければならないし、そのことは忘れては駄目。心に留めておくべき。

ただ、どうしても

一番の原因は組織構造にあるけれど、自分が経験したことではないことに対して「開き直られて、見て見ぬふりをされ続けてきた」時間をあまりにも長く過ごし過ぎた結果、人として大事なものを失ってしまったとしかどうしても思えないのです。

それはそれとして、辛く悲しく虚しくとも「自分は自分のやれることを積み重ねていく」だけ。それもまた心に留めて忘れずにいたい。

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