理不尽なことは受け入れるな
「一度でも」失ってしまったもの、受け入れてしまったものを取り戻すことは難しい。けれど、以前とは違うものとして「取り戻すこと」はできるかもしれない。それが以前よりも「よりよいもの」として取り戻せていればいいけれど、以前よりも「悪いもの」として取り戻していたら…それは「取り戻せた」と言えるのだろうか。
一度、失った信用と信頼は取り戻すことは難しい。一度でも理不尽なことを受け入れてしまったらそれが当たり前になってしまい受け入れてしまった人が苦しみ続けることになる。「受け取り方」次第だと言われるかもしれない。客観的かつ冷静になって状況を分析すればその通りであることの方が多いものだとは思いたい。けれど、一度でもこうした状態が起きてしまうと人は冷静になれず「そう思えない」のが常で、実際には「失った信用と信頼」は取り戻せず「受け入れてしまった理不尽なこと」が当たり前なものになってしまっていることの方が多く、取り戻し改善しようとしても以前よりも「悪いもの」になってしまいがちではないだろうか。
「自分はこんな所で働く人間じゃない」 “モンスター社員”に共通する“哀しい生態”とは -文春オンライン
この記事なんてそのいい例なんじゃないかと思う。モンスター社員側は「押し続ける」だけじゃなくて「引く」ことも必要だった。無理を通して道理を引っ込ませる人間はどこにでもいる。その引っ込んでしまった道理の陰で泣いている人間がいる。その人が「無理をせず道理を引っ込ませない」こと(発言や行動)をしても、モンスター社員扱いされるか、見て見ぬ振りをし、自分達の都合のいいように扱われるようになることもあると思います。
受け入れてはいけない理不尽なことを一度でも聞いてしまったら混乱を招くのは必然。けれど、「建設的な行動」を取る人までモンスター社員扱いしがちな今の社会の空気感は間違っているとしか思えない。「建設的な行動」が生まれない環境は澱んでいくだけ。そんな環境がモンスター社員を生んでしまう。モンスター社員が問題だというならば、そんなモンスター社員の理不尽なことを受け入れない信念と行動が必要。
一番の問題はモンスター社員だけれども、「意見を出すこと=否定」と受け止めがちな社会。少しでも何かをすれば「ハラスメント」とされる社会。けれど、「繋がり」や「連帯」を求められる矛盾。石原慎太郎が「唯一成功した社会主義国家が日本」と言ったことがあって私自身もわかっていたことではあるけれど、それを痛感することになるとは思わなかったコロナ禍の不安に対する同調圧力を強いる今の社会の空気が息苦しい。
それでもそんなことに合わせて生きていかざるを得ないのが現実。それでも「なんとか」納得のできるものがあればまだ我慢はできる。けれど、その「なんとか」もなく一線を越え続け人の心情をえぐり続けるようなことがあると…そんなものにそんな人に合わせる気も起きなくなるのも必然。
「繋がり」とか「連帯」の持つ意味合いって以前とは違ってきているのかなと何となく思い始めた日曜日の夜。
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