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風姿花伝(ふうしかでん) 能楽というエンターテインメントの基礎を作り上げた男の言葉

室町時代の能役者・世阿弥(ぜあみ)の執筆した
「風姿花伝(ふうしかでん)」は
能をいかに興行的に成功させるかという工夫の数々を、
実演者としての立場から説いた書である。
この記事では本文を現代語訳したものを
さらにさくっと読めてしまう文にしたものです。
何かを切り開いた偉人の言葉は現代に読み返すことで
迷いやすい様々な道から選択できるようになる手助けになります。
ご興味のある方は本当の現代語訳参考リンクを一番下に
貼り付けてありますので読んでみてください。


<第一 年来稽古条々(ねんらいけいこでうでう)”四十四、四十五歳編”>

この歳の頃から芸のあり方は全く変わってしまうだろう。
例え、世間から認められ、能の奥義を体得したとしても
優れた控えのものをそばに置いておくのがいい。
芸の良さは悪くならなくても、見た目の良さはだんだん劣化していく。
観客のもてはやしもそれに応じて、失せてしまう。
素顔で演じる能は年を取ってからでは見られたものではない。
この年からはあまり手の込んだ出し物を演じるべきではない。
大体のところは自分の年相応の能を、楽々と無理なく、
骨をおらず、二番手の役者に多くの演目を譲って、自分は添え物のような立場で
控えめに控えめに演じるのがいい。
例え、二番手の役者がいなくても、尚更手の込んだ演技をするべきではない。
何をしても傍目からは魅力がないからだ。
五十近くまで芸の魅力を見失わない役者であれば、
四十以前に世間の名声を得ていたであろう。
例え世間から認められた役者であっても、そのような上手は自分自身を知って、
若手を育成して、あまり難しい演技で欠点を晒すことはしてはならない。
このように自分の心を知ることこそ、
奥義に達した人の心というものであろう。


次回は「第一 年来稽古条々(ねんらいけいこでうでう)”五十歳くらい編”」です。
武蔵の「五輪書」とは違う考え方も多くもっていて、
人それぞれで正しい道など昔からないんだなと、改めて思います。
英語でも「Flowering Spirit」「Kadensho」などの題名で出版されているそうです。
世阿弥がこの書を書いた経緯や、この書が出版されるまでの経緯も面白いので
また別記事にしてアップしたいと思います。
ではでは。


参考
https://roudokus.com/Fushikaden/01.html

無題 - 2021年1月13日 19.55


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