『マス・イメージ論』吉本隆明に関する雑記⑦―作品鑑賞の高度化
『マス・イメージ論』の連載が文芸誌『海燕』に始まったのは1982年3月号からであるが、これと時期的に近い1983年3月に行われた「『源氏物語』と現代―作者の無意識」という講演に当時の吉本の作品批評に関する考えを述べた部分がある。
(前略)文学の作品の歴史があり、それから、文学作品を読む、あるいは、鑑賞するということにも歴史があります。文学作品の歴史は文学史というわけですけど、文学史のなかで、『源氏物語』が現在でもなお滅びないし、それから、現在でもなお生々しく伝わってくる出来栄えを示しているし、しかし、これは千年なんなんとするほどの以前に書かれたものだ。なぜ、そんなときに書かれたものが、いま生々しく伝わることができるのかというふうに考えますと、作者の無意識まで含めていいますと、『源氏物語』という作品が十分に現在の高度な作品鑑賞の到達点といいましょうか、高度な作品鑑賞、あるいは、作品批評の到達点で鑑賞することに堪えるだけの問題を、作者の無意識までも含めていえば、もっていたからだということになります。(中略)『源氏物語』というのは、さまざまな日記類と当時の物語の両方を集大成したひとつの達成点にあたるわけですけど、その達成点はたいへんに高度なものであって、作者は無意識の部分をたくさん含めていますけど、しかし、作者の無意識を含めて実現しちゃったものは、現代風の高度な鑑賞の仕方をしても十分にその鑑賞の仕方に堪えるという要素をもっている。それほど高度なものだったということがいえるわけです。ただし、こういう言い方をできるのは、『源氏物語』の作品を現代に引き寄せるからではありません。現代に引き寄せて、現代風にそれを切り取っているからではありません。そうではないのであって、現在の作品鑑賞の到達点というのは、作品鑑賞の歴史として存在するわけですけど、その到達点を描いて、作者の無意識のモチーフまでも読み込むことによってはじめて現代風に読めるということなんです。作者が千年も前の人ですから、そんなべつに高度な理屈を知っているわけでもないし、高度な教養をもっていた人ですけど、しかし、高度な理屈を知っているわけでもないし、千年後にはこういう鑑賞の仕方ができるだろうということを知っているわけでもないわけです。ただ、そういう無意識に描いているわけですけど、しかし、無意識までも、もし意識化して読み込むことができるならば、それは十分、現在の鑑賞の到達点までで堪えるくらい、それほど高度な達成をしているということを意味しています。(後略)(筆者が重要であると考える部分を太字にした。)
作品鑑賞が独自の歴史を持ち高度な段階に到達したからこそ『源氏物語』の中に含まれている「無意識」の部分まで読めるようになったという。『マス・イメージ論』では、製作者の無意識にまで入り込もうとして作品を批評しているが、吉本には作品鑑賞も高度化していたという認識があったのだろう。ここで言う作品鑑賞の「高度化」が具体的に何を意味しているかが気になるところだ。ヒントになるような記述を時代をさかのぼる著作ではあるが、『言語にとって美とは何か』(角川ソフィア文庫)から引用してみたい。
ある時代の言語は、どんな言語でも発生のはじめからつみかさねられたものだ。これが言語を保守的ににている要素だといっていい。こういうつみかさねは、ある時代の人間の意識が、意識発生のときからつみかさねられた強度をもつことに対応している。(中略)ある時代の人間は、意識発生いらいその時代までにつみかさねられた意識水準を生まれたときに約束されている。(後略)
「つみかさねられた意識水準」が歴史であり、この「つみかさね」が「高度化」に対応するのではないだろうか。上に引用した「『源氏物語』と現代―作者の無意識」にあてはめてみると、作品側だけでなく作品鑑賞側にも「つみかさね」があり高度な地点まで到達したと言えるように思える。言い換えると、過去の作品、現在の作品問わずに製作者の無意識まで表現できるくらいまで作品鑑賞の言語の歴史が到達したと言えるのでないか。
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