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柳田国男と戦後の言論人の橋渡し―飯島衛とは何者か?―

 先日の柳田国男と花田清輝の関係を紹介した記事で触れた飯島衛はなぜ中学生のころから柳田と知り合いだったのかという疑問に関して、さらに調べていて分かった点に関して今回は記事にしていきたいと思う。

 まず飯島衛の出自に関して国会図書館のデジタルアーカイブで閲覧できる1928年に出版された『人事興信録 8版』を利用して調べてみた。この資料によると、飯島衛は飯島亀太郎の家の三男であったようだ。飯島亀太郎は1867年の生まれで、東京帝国大学法学部を卒業後に外務省へ入り、ニューヨーク総領事、チリ代理公使、米国大使館参事官などを歴任し、外務省をやめた後に古河鉱業会社、東京輸出メリヤス会社に勤務した。衛はかなり上流の家の出身であったことが分かる。

 また、『人事興信録 8版』には、この飯島家の長男が飯島小平であると述べられている。飯島小平は英文学者で、シェークスピアなどを研究していたようだ。『定本 柳田国男集』の月報を調べていくと、月報12に飯島小平が「柳田のおじさんの思い出」という文章を寄稿しているのを確認できた。この文章を以下に引用してみよう。

明治の四十四年というと今日から既に五十年以上昔のことである。その頃柳田國男氏(同氏夫妻のことを私は「柳田のおじさん、おばさんと云いつづけて来た。」は貴族院書記官長の職に居り、わたしの父も外務省の参事官だったので、既に交友関係があった。その上茅ケ崎の柳田家の別荘と私(筆者注:飯島小平)の家の別荘(明治の四十四年に建った)が偶然隣り同志で、両家の子供達がお互いに五人姉弟でしかもほぼ同じ年齢だったので一、二年経たぬ中親しくつきあうようになった。殊に夏休みに茅ケ崎へ来ると、両家の子供たちは毎日のように連れたって海に行く。曇りや雨の日はどちらかの家に赴いて遊ぶ。(後略)

 この交流が月報6に衛が寄稿した「追想断片」の中で「家族友達(ファミリー・フレンズ)」と語っている交流がはじまるきっかけ、その交流の詳細であろう。このような柳田との深い交流があったからこそ、衛は『近代文学』の同人と柳田を橋渡しすることができたと言えそうだ。

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Theopotamos (Kamikawa)
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