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「日本新聞」に寄稿していた?忘れられた哲学者・平澤哲雄

 拙noteで度々取り上げている忘れられた哲学者・平澤哲雄に関して、以前以下の記事で今後の課題のひとつとして交流関係の解明を挙げて、特に彼の著作である『直現藝術論』(下出書店, 1922年)に感謝のことばが述べられている遠藤隆吉、深田康算、北昤吉(れいきち)(北一輝の弟)、ヘンリー・ブイを例として取り上げた。

交流関係の資料では、平澤の追悼会の案内が南方熊楠顕彰館に所蔵されており、平澤の交流関係の一部が確認できる。以下の記事でも紹介しているが、平澤の追悼会の発起人を再掲しておきたい。

西田幾太郎、帆足秀三郎、床次竹次郎、大山郁夫、荻野定一郎、金子堅太郎、金子馬次、吉江喬松、団伊能、南方熊楠、マダムメタクサ、小島茂雄、越英之助、遠藤隆吉、坂井徳太郎、北沢楽天、紀平正美北昤吉三土忠造、塩沢昌貞、エンチレール (いろは順)

この中で今回注目したいのは、上記の太字にした人物のように国家主義、アジア主義、日本哲学の関係者が何名かいることである。ここから平澤もこれらに関わる仕事もしていたのではないかと推測できる。Googleブックスで調べてみると、戦前に発行されていた「日本新聞」関連の本に平澤の名前が確認できたため、このことを確かめるために『日本新聞十周年記念  日本精神發揚史』(日本新聞社, 1935年)(以下、『日本精神發揚史』と記載)を入手した。以下に書影と奥付を写真で掲載したい。なお、この本は国会図書館デジコレ(図書館配信限定)でも閲覧可能である。

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 「日本新聞」は、自由主義や社会主義の思想が広まっていることに危機感を感じて小川平吉が中心となって発行した新聞で、国家主義を盛り返すことを目的としていた。数年前にNHKスペシャル(注1)で取り上げられて話題になったため、ご存知の方もいらっしゃるだろう。

 『日本精神發揚史』では、平澤は日本新聞への特別寄稿家のひとりとされている。他の特別寄稿家は、井上哲次郎、徳田秋声、幸田露伴、河東碧梧桐、山本有三、紀平正美などである。平澤は1925年9月21日亡くなっているので、実際に記事を投稿したかどうかは気になるところである。また、日本新聞の創刊を記念して6月27日に上野自治会館で日本新聞社主催の国策問題に関する講演会を実施しているが、その中で平澤は「日本外交的位置」という題目で講演を行ったようである。

 日本新聞に関係していた平澤は、私の調べている人物と同一人物かという疑問もあるかもしれないが、『日本精神發揚史』によると、日本新聞は、平澤と深い交流があったと推測されている北昤吉が編集として積極的に関わっていたため、おそらく私の調べている平澤と同一人物であるだろう。平澤は北に寄稿を依頼されたのだろうか。

 上記で推測したように、平澤はインド哲学や美術への関心から出発して国家主義、アジア主義的な仕事もしていたようである。今回はひとつの事例であるが、平澤の交流のあった人物から推測できるのは、彼がこれらの思想に関する仕事を広く行っていた可能性が高いということである。

(注1)以下の記事を参照




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