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忘れられた民俗学研究者・出口米吉の生涯

1. はじめに―「謎の研究者」から「忘れられた研究者」へ

 先日、下記の記事で「謎の民俗学研究者」として紹介した出口米吉は性に関する民俗に関心を持っていたこと以外あまり分からないと述べた。しかしながら、さらに調べていくと実はこの人物の年譜が存在したことが判明した。

 2020年11月6日現在無料公開中のざっさくプラスで出口米吉の名前を検索したところ、染織書誌学研究家・後藤捷一(しょういち)が『近畿民俗』(近畿民俗学会)の第28号(通巻35号, 1961年)、第29号(通巻36号, 1962年)に出口の年譜を投稿している。この年譜には出口の書誌年譜も含まれており、出口の生涯を知る上で非常に貴重なものである。詳しくは後述するが、出口は現在で言うところの民俗学がひとつの学問領域として成立する前に発行されていた『東京人類学雑誌』に頻繁に投稿しており、その大きな貢献から東京人類学会より表彰もされている。このことから出口は当時の研究者の間では有名であったと考えられるが、現在ではほとんど知られていない。したがって、出口のことを私が知らなかっただけなので、出口は「謎の研究者」ではなく「忘れられた研究者」であるとみなした方が適切であろう。本稿ではそんな忘れられた民俗学研究者である出口の生涯を年譜を通して紹介していきたい。また、後半では出口は現在なぜ忘れられてしまったのか?という疑問に対して検討を行っていきたい。

2.  出口米吉の生涯―後藤捷一の年譜より

 まずは、『近畿民俗』(近畿民俗学会)の第28号(通巻35号,1961年)、第29号(通巻36号,1962年)に掲載されている後藤捷一編集の年譜を部分的に紹介する形で出口の生涯を見ていきたい。この年譜は出口の生涯に関して、非常に細かく書かれているが、筆者が重要であると考えた部分を以下のようにまとめた。なお、下記の年譜は分かりやすくするために、引用元の文章から表現を変えている。書誌に関しては、個人的に関心がある地方―地方の研究者の水平的な関係性がみられるものを中心に記載した。また、年譜に記載されていない情報は引用元を明らかにし、※という形で追記した。

1871年 7/10に石川県金沢市三社町山田亥平四男として生まれる。
1875年 父・亥平が亡くなる。金沢市富本町出口吉兵衛に養われる。
1876年 金沢区動成小学校に入学
1880年 金沢区私立数田小学校中等科に入学

1883年 金沢区私立数田小学校中等科を卒業
以後農業をしながら、后東八郎、藤田維正、長谷川天穎に漢字を、井波他三郎(筆者注:井波他二郎か?)に英語を、上山小三郎に数学を、和田権五郎につき物理・地文学(筆者注:現在の地学・気象学)

1886年 出口吉兵衛の養子になる。
1887年 石川県石川郡小学校授業生試験に合格、栗田新保小学校授業生となる。

1888年 栗田新保小学校授業生を辞め、石川県尋常師範学校へ入学。このころ人類学に興味を持つ。

1892年 石川県尋常師範学校を卒業。以後石川県内の小学校の訓導を務める。 ※民俗学、人類学の同好会を組織していた。(高桑良興「序に代へて」『近畿民俗』第28号より)

1898年 東京高等師範学校英語専修科に入学 ※在学中に坪井正五郎と知り合う。(高桑良興「序に代へて」『近畿民俗』第28号より)

1900年 東京高等師範学校英語専修科を卒業。宮城県第一中学校教諭になる。

1901年 寿々栄と結婚。このころから民俗学関係の論文を発表しはじめる。
1902年 埼玉県立浦和中学校教諭になる。
1903年 養父吉兵衛死去
1904年 奈良県立畝傍(うねび)中学校教諭になる。12月に人類学への大きな貢献から東京人類学会より表彰される。

1907年 大阪府立北野中学校教諭になる。
1910年 金沢より大阪に転籍
1914年 私立大阪商業学校教員になる。
1918年 「日本における生殖器崇拝(一)」『郷土趣味』9号
1919年 私立大阪商業学校教員を辞める。久原商事株式会社へ入社。 ※このころ後藤捷一と知り合う。(後藤捷一「編者の言葉」『近畿民俗』第29号より)

1921年 関西商工学校夜間部の講師となる。久原商事株式会社を辞める。神戸デラカンプピーパー商会へ入社。

1922年 デラカンプピーパー商会を辞める。神戸鉄道局教習所講師となる。
「地蔵尊が道祖神を併合せし一類例―欧州に於ける耶蘇教の生殖器崇拝併合―」『土の鈴』12号

1926年 「陰崇拝より陽崇拝へ」『人文』1巻1号(筆者注:本山桂川が編集・発行)
『評註東海道中膝栗毛』 ※このころ宮武省三に会う。(宮武省三「出口米吉翁と私」『近畿民俗』第36号より)

1929年 神戸鉄道局教習所講師を辞める。大阪府福島商業学校主事になる。 ※このころ学生を引率して朝鮮半島、満州地域を視察?(宮武省三「出口米吉翁と私」『近畿民俗』第36号より)

1931年 ※このころ澤田四郎作、後藤捷一と民俗学に関する談話会を開催するが続かず。(後藤捷一「編者の言葉」『近畿民俗』第29号より)

1932年 「甲賀三郎の伝説」『土の香』7巻2号
「湧き出る水の祥瑞」『民間伝承』1巻2号(筆者注:佐々木喜善が編集・発行していた。(注1)1935年以降民俗学研究の中心となった『民間伝承』とは別の雑誌)

1934年 ※澤田四郎作の雑誌『五倍子雑筆』の出版を手伝う。(澤田四郎作『日誌』(昭和9年分)より。磯部敦さんらによって翻刻されたものを参照した。)

1936年 「古書について」『文字と言語』10号
1937年 死去

以上、見辛くてたいへん恐縮だが、年譜を部分的に引用してみた。

3.  在野の民俗学研究者・出口米吉

 ここからは年譜を確認する中で気になった点に簡単に紹介していきたい。まず興味深いのは、出口の出生年と出生地である。出生年に関しては、出口は柳田国男よりも年上である。初期から『東京人類学雑誌』に関わっていたということから、ある程度は推測可能だったが、年譜で確認してみると改めて驚かされる。出生地に関しては、大阪で活動してた印象の強い出口の出生地が石川県であるとは個人的にはかなり意外であった。

 出口の仕事の注目すべき点は、年譜にあるように、東京人類学会から長年の大きな貢献が認められ表彰されたことであろう。以下に年譜に記載されている記述をそのまま引用してみたい。

出口米吉君は人類学研究に志篤く有益なる論文を会誌に寄稿して学界に貢献すること多し仍て本会を代表し其功を顕彰し功牌を贈る 明治三十七年十月二日 満二十年記念祝賀会席上に於て 東京人類学会長理学博士 坪井正五郎(筆者注:『近畿民俗』(近畿民俗学会)第28号の年譜中よりそのまま引用)

東京人類学会の20周年を記念した祝賀会で長年に渡る大きな貢献が認められ坪井正五郎より表彰されたことが分かる。出口は初期の『東京人類学雑誌』に投稿しており、当時有数の研究者であったと言うことができるだろう。また、中央の雑誌だけでなく地方の雑誌にも多く投稿していたということが興味深い。厳密に言うのであれば、地方の雑誌への投稿は1920年代以降増加している。これには後述するような背景があると考えられる。

 出口は雑誌に投稿していただけでなく、上記の年譜中でも紹介したように人類学・民俗学の同好会や談話会も組織していた。金沢で組織された同好会の詳細は不明である。また、年譜中にも引用した後藤の「編者の言葉」(『近畿民俗』第29号)によると、澤田四郎作、後藤捷一、出口は大阪で民俗学の談話会を開催していたが、2, 3回で終わってしまい、その役割は後の大阪民俗学談話会に移ってしまったようだ。出口の組織した団体は記録にあまり残っていないかもしれないが、金沢の同好会は最初期の民俗学研究の地方の動きとして、大阪の談話会は現在記録に残っている以外の民俗学に関する集りが同時代に数多くあったことを示す事例として重要であると考える。

 最後に強調したいのは、出口は年譜にあるように職業を転々としながらも勉強や研究を続けていた在野の研究者でもあったという点である。出口と同時代の民俗学研究者は柳田も例外ではなく在野の研究者であったが、以下の出口のエピソードには在野らしさがあふれており共感してしまう。

(前略)勤務学校の十分間の休憩時間、電車往復時、夜学を終へて帰宅後就寝までの時などは、君の貴重な読書時間で、長年月に亘り斯る零砕な時間を極度に利用したのである。(後略)(高桑良興「序に代へて」『近畿民俗』第28号より)

現在、私がこの文章を書いているのが深夜1時ごろであったり、この文章を書く際に参考にした年譜や記事を仕事の昼休みに昼食を取りながら読んでいたりしていたため、どうしても上記のような仕事の合間をぬって勉強や読書をしているという出口の姿勢に親しみを感じる。現在でも出口の姿勢はお手本になるのではないだろうか。日々の生活に追われながら研究を行ってた出口からは、柳田とはまた違った在野の研究者像がみられる。また、日々の生活が忙しくてもそれにめげずに勉強していく出口の熱意が感じられる。

4. 三重に疎外された研究者―なぜ出口米吉は忘れられたのか?

 かけ足ながらここまで出口の生涯を紹介してきたが、ここでひとつの素朴な疑問が出てくる。それは、初期の人類学・民俗学の発展に貢献し、東京人類学会から表彰をされていたにも関わらず、出口は現在ではなぜほとんど話題にあがらず忘れられているのか?という疑問である。拙いながらこの疑問に対する私の考えを述べていきたい。この疑問は民俗学史を検討する上で死角となりがちな問題を含んでいるとも考えられる。

 唐突だが、ここで出口の評価のされ方を検討するために山中共古と出口を比較していきたい。山中共古は1850年の生まれでキリスト教の牧師をつとめながら民俗学の研究をしていた。出口と山中は年齢こそ離れているものの、初期から『東京人類学雑誌』に投稿していたという共通点がある。「出口米吉翁と私」宮武省三(『近畿民俗』第36号)によると、出口は山中と交流があったことを宮武に語ったという。出口と山中の評価のされ方には共通点もある一方で対照的なところもある。山中の評価のされ方に関しては、『対談中世の再発見 市・贈与・宴会』網野善彦・阿部謹也(平凡社, 1982年)の中で網野が興味深い発言をしている。少し長くなってしまうが、以下に引用したい。

(前略)日本の近代の学問のあり方について別のところでも書いたことがあるんですが、山中笑(共古)という民俗学者がいるんですね。(中略)その人は、『東京人類学雑誌』の古くからの恒常的な投稿者だったんです。それは、考古学というか、土俗学というか、必ずしも分化していない。しかし非常におもしろいものを書いています。(中略)だがら山中さんの死んだ年、昭和三年には必ず何か記念すべきことをその雑誌がやっているだろうから調べてほしいと、山中さんを研究している義兄(中沢厚)からたのまれまして、全部その雑誌をめくってみたんです。そうしたら、ある時点から、大正年間だったと思いますが、その雑誌の性格ががらっと変わってしまいましてね。それまでの地方からの短文、雑報などがきえて、数値を駆使した学問的なものになってくる。山中さんももう投稿しなくなっていて、おどろいたことに、いくらめくってみ、それ以前の雑誌では非常に活発な投稿者だった山中さんについて、その死んだ年に、追悼の言葉らしきものはひと言もみつからないんですね。(後略)

網野の上記の発言は民俗学や人類学の学問の性格が変化した―これらの学問がアカデミズム化した―とするひとつの事例として山中の『東京人類学雑誌』での評価のされた方の変化を指摘したものである。ざっさくプラスで出口の書誌を調べてみると、出口も1915年(大正4年)を最後に『人類学雑誌』(『東京人類学雑誌』が改題された)に投稿していない。興味深いことに、出口は1920年以降地方の雑誌への投稿が増えている。これには出口が大阪へ引っ越し活動の拠点を移したということもあるかもしれないが、雑誌の性格の変化から自分の仕事の発表先を変えざるをえなかったという事情もあると考えられる。出口も山中と同じく『東京人類学雑誌』や民俗学や人類学の学問のアカデミズム化に伴い評価されなくなり忘れられてしまったのではないかと考えられる。

 ここまでは山中と出口の評価は共通しているが、両者の評価が分かれるのは柳田との距離である。柳田の『石神問答』で山中の書簡が多く紹介されていることは知られているが、これによって柳田を中心に考えた民俗学史からは、山中は柳田と深い交流のあった研究者としてみなされるようになる。一方で出口と柳田の間に交流があったかどうかはよく分からない。『増補改訂柳田文庫蔵書目録』(成城大学民俗学研究所編, 2003年)によると、柳田文庫には出口の著作が所蔵されている。また、以下の論文によると、1910年より柳田は東京人類学会の会員になり『東京人類学雑誌』の出口の投稿を読んでいるため、出口のことを知っていたと言えるだろう。しかしながら、山中ほど深い交流はなかったと思われる。そのため、柳田を中心として民俗学史を考えると出口はどうしても視野の外になってしまう。完全に余談だが、「編者の言葉」後藤捷一(『近畿民俗』第29号)によると、出口の死後、柳田は出口の蔵書の引き取り先を探すのを手伝ったという。

 最後に、柳田を中心とした民俗学史の考え方とも関連するが、出口が性に関連する民俗を積極的に研究していたことも彼が忘れられた要因のひとつと言えそうである。柳田が性に関する民俗を知りつつも取り上げなかったのは有名な話であるが、出口はその領域に特に関心を持っていたため他の性に関する民俗を研究していた研究者(例えば、中山太郎、赤松啓介など)と同じように評価がなされず現在では忘れられてしまったのではないだろうか。(注2)

 私が考えられる限り出口が忘れられた理由をあげてみたが、民俗学史を検討するにあたって上記のようなフィルターが重層的にかけられており、出口が現在の民俗学史から疎外されてしまったということが言えるのではないだろうか。これらの点は近年民俗学史を検討する上で考慮されている問題であり私が言うまでもないかもしれないが、出口が忘れられてしまった背景には構造的な問題があるのではということを指摘しておきたい。

5. おわりに―出口米吉の再評価の行方

 本来なら出口の著作の検討を行い民俗学史の中での位置付けを考えたいところだが、残念ながら筆者にはその能力(ついでに時間)もないためここで終わりとさせていただきたい。今回は既存の研究を紹介するだけで終わってしまったが、少しでも出口や彼が忘れられてしまった民俗学史の問題点に関心を持っていただければ幸いである。また、最低限の問題提起になっていると考えられると非常にありがたい限りである。

 最後に、簡単に今後の期待に関して考えを述べていきたい。個人的には、出口の仕事の再検討とその民俗学史的な位置付けに関しては、しかるべき方に検討していただいたいと考えている。また、年譜がつくられているといっても、出口に関しては交流関係、書誌に掲載されていない文章、当時の民俗学界での立ち位置などまだ分からないことも多い。今後新しい事実が分かれば継続的に報告していきたいと考えている。

(注1)佐々木喜善の『民間伝承』に関しては、以下の論文も参照した。

(注2)赤松啓介はここで改めて述べるまでもなく再評価されている。中山太郎は赤松に比べると再評価が進んでいないが、『売笑三千年史』がちくま学芸文庫として2013年に出版されている。礫川全次が複数の著書で積極的に取り上げている。(以下の参考文献中の礫川の文献を参照)

<文章中に取り上げなかった参考文献>

『近代日本の民間学』鹿野政直(岩波新書, 1987年)

「本山桂川ーその生涯と書誌ー」小泉みち子『市立市川歴史博物館年報 第15号(平成8年度)』(市立市川歴史博物館, 1998年)

『異端の民俗学 差別と境界をめぐって』礫川全次(河出書房新社, 2006年)
『柳田国男を読む』赤坂憲雄(ちくま学芸文庫, 2013年)
『柳田国男の歴史社会学―続・読書空間の近代』佐藤健二(せりか書房, 2015年)
『在野学の冒険―知と経験の織りなす想像力の空間へ』礫川全次編(批評社, 2016年)

(敬称略)


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