柳田国男の『炭焼日記』の謎と中野正剛の遺児②―解決編?
ずいぶん前に柳田国男の『炭焼日記』に中野正剛の遺児(達彦・泰雄)の名前に書き間違いがあるのでは、という指摘を以下の記事で行った。
上の記事で、『炭焼日記』には中野泰彦なる人物が訪ねてきたと書かれていたが、中野正剛の息子にそのような名前の者はいないため柳田の書き間違い、記憶違いの可能性があるのではないか、ということを指摘し、『炭焼日記』を読む限りでは、結局達彦と泰雄のどちらが訪ねてきたのかは分からないと述べた。
しかしながら、先日投稿した記事に関連する情報を『別冊新評 花田清輝の世界<全特集>』(1977年10月発行・新評社)で調べていた際に、この雑誌に投稿されていた花田清輝を回想する「編集顧問としての花田さん」という中野泰雄の文章を見つけた。この文章は、花田も編集に関わっていた『真善美』という雑誌のことを回想したものであるが、この中に以下のような記述を見つけた。
こうして雑誌発行の態勢ができかかったとき、(三宅)雪嶺が『同時代史』の最終稿と、『我観』改題『真善美』第一号への原稿を私に口授して間もなく、十一月二十六日早朝、昏睡危篤状態におちいり、やがて絶息した。先代岩波書店主の協力でその葬儀をおえて間もなく、私が全身に疥癬(かいせん)がひろがり、その痛苦のために一月ほど寝こみ、そして回復後、一月ほど福岡および九州旅行に出かけた。(後略)
以下は『炭焼日記』の中野の登場する部分だ。
十二月二十日 木よう 晴
中野泰彦君来、正剛氏遺児、「我観」をつづけるからたのむという。(後略)
泰雄の回想から、泰雄は11月下旬から12月下旬にかけて寝込んでいたことが分かる。柳田の家を訪問したのは12月20日であるが、泰雄がこのような状態で柳田を訪問できたかどうかは疑問が残る。そのため、この日柳田を訪問したのは達彦だったのではないかと推測できる。
実は、この話『花田清輝全集』に付属している「月報17」の「真善美社始末」中野泰雄という文章にも出ており、今回改めて読み返してみて気が付いた。ということは、以前記事を投稿した際には見落としがあったようだ。。。資料はよく読むようにと言われているが、そのことの重要性を今回実感した。何度も読み直してみることが大切なのだろう。
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