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橋川文三『歴史と体験 近代日本精神史覚書』についてのメモ④―「歴史意識」とは何か?
以下の記事などで紹介しているように、橋川文三『歴史と体験 近代日本精神史覚書』(春秋社、1964年)を読み進めているが、先日の読書会でⅢ、Ⅳを扱った。
特にⅣはこの本の主題である「歴史意識」に関しての橋川の考えが述べられている。橋川の考える「歴史意識」は以下の部分で簡単に論じられている。
現代において「歴史意識」の問題ともっとも深く交渉する思想上のテーマは、いわゆる「戦争体験論」であろう。というよりも、戦争体験論の中心的課題は、現代日本の思想伝統にまさに「歴史意識」を定着することにおかれているのである。誤解を恐れないでいえば、それは戦争の個々の記録を作成しようとするのでもなく、戦争過程の体験に固執するのでもない。戦争体験を、歴史過程としてとらえるのではなく、いわば原理過程としてとらえようとするのであり、個別的ヒストリクではなく、メタ・ヒストリクの立場から、歴史に対する意識そのものの原理を与えようとするのを目標としている。
橋川によれば、「歴史意識」は「個別的ヒストリクではなく、メタ・ヒストリクの立場」の意識であるという。私はこの文章を読むまで橋川の「歴史意識」は自分の体験を歴史の中に位置付ける意識であると考えていたが、それは違っていたことがわかった。ここで私は橋川の「歴史意識」は自分の体験から出発してそれを普遍(思想、理論)に結びつける思考過程のことであり、この思考過程は丸山眞男と似ていると考えた。しかしながら、橋川の中で普遍と歴史がどのように接続されているのかがよく分からないままであった。
しかしながら、先日の読書会で橋川の「歴史意識」について出席者の方から次のような指摘があった。その方によれば、橋川の「歴史意識」は自分の体験を個体を超えて続いていく「歴史」に結びつけ、その結び付きが適切であるかどうかを常に反省する意識であるという。ここでいう「歴史」とは、自分という個体が消滅(簡単に言うと死)したとしても、自分という個体とは関係のないところで続いていく「歴史」である。具体例を追加すると、自分が発表した研究成果がその研究史に位置付けられて、自分の死後も存在して時には参照されるということを想像できることである。この説明をいただいて私は納得した。橋川の「歴史意識」は私が考えていた以上に奥が深いものであった。
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